いのちをまもりそだてる~障害者の地域育て・子育て~

2018-09-07

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1.はじめに

私達が入籍するとき「古井の姓は彼女には使わせるな」と言われ、どちらの姓を名乗るか迷っていたのが、反発して迷わず古井の姓に決めた。何事も言われっぱなしだと障害者は暮らしていけない。
図1.お腹には3人目

子供ができたとき「結婚は仕方ないが子供は堕ろせ」と言われ、二人目ができたら「一人目はしかたないが二人目は堕ろせ」、三人目ができても「二人目はしかたがないが三人目はだめだ」と言われた。それ程、当時はまだ健常者だった親には想像もつかない生き方だったに違いない、後に脳梗塞になって障害者自立生活のスキルを獲得するまでは。

 

2.CPペースの育児にこだわる

たとえば、脳性まひ(CP)者は全身性障害で、母乳を与えるにはアテトーゼで力がコントロールできない手で首の据わらない新生児を抱えることになる。場合によっては床に落としかねない。でも、その抱かれ方が児にとって「当たり前」になるからこそ、きちんとした母子関係が育つのだと思ってきた。だから不随意運動の無い相方(透)に子供を抱かせるのは、授乳後の「げっぷ」と入浴の時だけに限った。

図2.首のすわらない長女を抱く
それでも、こどもは元来「快適さ」に敏感なので、おしめ換えひとつでも嫌がる子供と格闘したこともある。つくづく障害者の子育てを当の子供に慣れさせるのは根気の要る事だと実感した。3人の年子はこうしてアテトーゼの手で抱えられながら、3人とも母乳で育てた。障害者が母乳で子育てするのは珍しいようで、10年後NHKテレビの朝の連ドラの後の番組で私たちの子育てが紹介され、それを見た小児科医から母乳哺育への賞賛の手紙も届いた1)

 

3.育児も生活もご近所を巻き込んで

障害者運動で、いくら国や行政に主張してきても、私生活での隣近所との関係で人間つき合いをする機会はまれだった。しかし年子3人の子育てだったので、向こう3軒両隣のご近所との関わりなしには1日たりとも暮らせなかった。CP者が地域で仲間に溶け込むために、特に欠かせないのは、みんなの井戸端会議の場にしっかりと入り込むことだと思う。そうしておけば、いざというとき助けてもらえる。

上の娘は病院で産まれたが、2番目の男の子は自宅で早産だった。救急車を呼ぶのも、その誘導や、留守中の1歳の娘の世話まで、すべて隣近所が助けてくれた。遠くの身内より近くの他人が、障害者の生活には欠かせない。この緊急時の対応をきっかけに、我が家の扉は常に地域に開かれる(実際にあまり鍵をかけたことは無い)ようになった。


図3. オシメ90枚を干していた屋上もの干し場

当時紙オムツは高価で、毎日布オシメを90枚洗って干していた。透は3人の子供を順番にお風呂に入れ、お乳をやって寝かしつけて最後には私の入浴介護があるので、1日に3時間お風呂に行ったり来たりを裸で過ごす。そんな我が家の生活スタイルがユニークで近所の関心の的だったこともあるだろう。

 


図4.三時間のお風呂

そもそも人情味あふれる街中だったことも手伝って、晩御飯のおかずを持ち寄り近所同士で一杯やったりするオープンな、ご近所みな大家族のような付き合いが始まった。

透が神戸大学理学療法学科に入学し日中家事ができなくなった時、長女は8歳で、毎日の夕食を作らなければならなくなった。だから近所の子が「遊ぼう」と誘いに来ても「買物に行って料理作るから」と断っていた。それを見かねたご近所のSさんが「妙ちゃん今日は何にする?」といって、毎日の様に料理の方法を教えに来てくれて、包丁の切り方から、煮込み料理まで手取り教えてくれていた。

透に似たのか、末の次男はとにかく落ち着きが無く、いつもあちこち走り回っていた。下町の狭い路地だったので配送のトラックなどは、一旦バックしてからでないと路地を出られない。そんな時、よく次男が荷台の後ろにぶら下がったり、下に入り込むので、路地の塀との間に挟まれそうになる。すかさず「こらー勝!!危ない」と大声が路地に響き渡る。誰彼なく見守ってくれる、そんな日常だった。それでも、とうとう小学校2年のある下校時に、下り坂を駆け下り交差点に突っ込んで車にはねられた。脛骨腓骨を同時に骨折し入院した。その時は母親が障害者で付き添いができないので、24時間付き添い婦を事故の保険からつけてもらえた。

このように子供達3人とも地域で、たくさんの大人たちの眼差しや手に支えられて育った。あのころのあの地域の子供たちは総じて周りの大人達みなが関心を持ち、叱ったり教えたりしながら育っていた。

我が家が広島に引っ越した数年後に再訪したとき、ご近所の人たちが当時のことを異口同音に回想しては言っていた。今はもう昔のことだけど、あのころはみんなが誰彼なく地域で子育てしていた・・・・。

 

4.おばちゃん怪獣やねん

図5.三人の子供達と私
子供が幼稚園に通いだすと、その幼稚園の子供達に対しても、脳性まひ者である私が3人のこどもの親であり、健常者とは異なる人間モデルがあることを伝えねばならない。まずは、毎日子供の送り迎えで、普段から目立って、知り合っておく。

子供の誕生月に園で開かれる誕生日会では、親が子供にメッセージを伝える場面があった。毎年そこで子供達に向かって「みんなゴレンジャー見てるよね?ゴレンジャーが勝つとそれだけで喜んでしまうよね。でも、おばちゃんみんなと違うやろ?手足の動きも怪獣みたいに見えるやろ?ゴレンジャーがやっつける怪獣もみんなおばちゃんみたいやなあ。きっと怪獣もいろいろ感じたり、思ってるんとちゃうかな。見た目だけではわからんこともある。そういうことをいつも忘れんといてほしいな。」と語りかけた。

親や教師の中には目を潤ます人も、眉をひそめる人もいたが、子供達はたじろぎもせずまっすぐに聞いていたように見えた。こういう講話は、こどもが3年保育だったので6年間続いた。共育・共生を目指すには、キレイごとでは済まされない生身の人間同士が向き合う体験の積み重ねが欠かせない。時に、それは心地よくないこともあるかもしれない。

 

5.脳が死んでいても楽しく生きているよ

子供が学校に行きはじめても、行事ごとは常に脳性まひの母親である私が参加していた。学校の教員や近所の人がその送迎や学校内での移動の介助もしていた。障害者とつきあうというのは、そういう介助も含むということを、自分の周囲に広めながら日々を重ねていった。この古井スタイルの子育てがユニークなのでNHKテレビの朝の連ドラの後にある番組の取材が入り全国放送された。それからは地域の中学校には定期的に、近隣の高校でも口演をするようになった。

中学生にもなると、どんな高校に進学するのか「頭の良し悪し」だけが重要なのだと、周囲からも言われ、自分たち自身もそういう尺度にがんじがらめで苦しんでいた子が多かったに違いない。だから私が「おばちゃん、どこに障害があるかあてられるかな? 手か?足か?そう思うよね。でも実は、おばちゃんの脳みその一部が死んでいます。それも赤ちゃんのときから、今もこれからもずーっとです。」こう言ったとたん、それまで下を向いていた子供達が一斉にこっちを見て、「えーっ脳が死んでるの?」と話に聞き入ってくる。

さらに「脳みその一部が死んでいると命令が身体にうまくいかないので手足の動きが他の人とは違っている」ので、何をしても人々から奇異の目で見られることが多い。でもそれを「みんなが振り返るので、たくさんの人に挨拶できる」「めちゃめちゃ目立って、いい気分だ」に切り替えるというライフスキルを披露する。「電動車いすを使うようになって、どんな遠いとこでも、疲れず早く行けるようになった」など「できないことの強み」や、それを他人がどう言おうとポジティブに楽しむ観点をわかりやすく伝えようとした。すると「いつも授業なんか絶対聞かない、騒いでばかりいるような生徒が真剣に聞き入っていた」教師たちは毎回のように驚いていた。

 

6.M君の転校

これは、大人になった子供たちに言わせると必ずしも褒められた子育てではなかったらしいが、通信簿のような単一尺度で人を判断するのは優生思想につながるので、我が家では「勉強しろ」とか成績についてとやかく言ったことは無かった。だから、特に三人目の次男の授業態度は、授業中はノートもとらず、他の本を読んで過ごしていた。

ところが、クラスの多くの生徒が学習塾に通っていて、学校の授業自体がすでに習っている内容なので授業中はとても退屈だから起こったことかもしれない。授業中に、気の弱い性格の命令に逆らわないM君をはやしたて、机の上にあがる等の問題行動を起こさせ、クラスを混乱させるのが日常茶飯事だったと聞いていた。

一部の生徒が退屈しのぎでしていたことが、はやし立てられると素直に目立ってしまうM君にとって思いがけない結果を招いた。学級崩壊の元凶のように解釈され、近所にできた「特殊学級」にM君が転校させられるという話が、不運にもお父さんが亡くなった後で、なぜだか持ち上がった。

新設する特殊学級の成立要件などという、大人側の勝手な事情で、本人の意に反してクラスからM君を隔離しようとするそのやり方は、私達が子供時代、養護学校ができた頃にあちこちから子供をかき集めて何とか学校を成立させようとした、あの時とそっくりの様に思えた。

隔離と排除の論理による発想だと直感した私はPTAのお母さんたちを巻き込んで、いろいろな事例をあげながら話し合いを重ねた。5-6人のお母さんたちも強く反対しはじめた。しかし結果は、一家の大黒柱を失い弱気になったM君のお母さんが転校を受け入れてしまった。

私の息子の勝の方がよっぽど勉強できなかったのに、私がPTAでもはっきりと主張するから、私の息子にそんなことが起こらなかっただけにすぎない。大きな声をあげない人を追い込み、その存在自体を断ち切った。これでクラス中の生徒の心に優生思想をしっかりと植えつけてしまった。このやりきれない気持ちを勝や子供たちや少なくても数人の親たちとは共有できたとしても、やはり口惜しい・・・。

7.「3人目はだめだ」と言われた次男が介護

1996年 4月、兵庫県の郡部の町に住む透の父が脳梗塞で緊急入院した。透の母は足腰が弱く、視野狭窄もあり重い介護はできなかったので、当時中学3年になったばかりの次男が春休みから泊まり込んだ。新学期が始まってからも学校を休み、5月にリハビリテーション目的で大都市の病院に転院するまで、急性期の介助量が多い時期を、つきっきりで介護した。たしかに中学3年の1学期始めの1ヶ月を介護のために休めば、一般的には進学への支障も心配かもしれない。妊娠時「三人目はだめだ」と言われても、「僕が生まれる前のことは関係ない、よく面倒みて遊んでくれたおじいちゃんだから当たり前のこと。」と次男は迷いなく義父の介護を選んだ。


私についてきて!



図6 透の父の入院で息子が1ヵ月半介護

義父には右片麻痺が残り、失語症もあった。私は「いくら立って歩けても、健常者に、元の身体になるわけではないでしょう? なのに、過去の自分を追いかけさせるような、動作訓練にこだわるよりは、限られた人生の中で自由に、自分らしく生きられるように、もっと電動車いすを積極的に使い、自己決定の機会を増やす努力をしてほしい。少なくても私の義父にはそうなってほしい。」と、病院の担当者に訴えた。そして、義父は電動車いすで望みだった自宅へ退院し、障害者としての第二の人生を送った。

 

8. いのちのつながりと子供たち

私の母、子供らにとっての祖母は交通事故による頭蓋骨陥没と脳挫傷で退院後は、父が寝たままでおしめも替えて、靴下もはかせ・・すべてを身の回りの世話をして寝たきりになった。

私の生き方をよく知る子供たちの目には、どうみても過剰介護の悪循環に見えたようだ。そこで、孫ならでは許されるような最低限の介助で、関われる場面だけでも対応していた。すると不思議なことに母もそれなりに応じていた。さらに6年後、母に脊髄腫瘍が見つかり大学病院で入院手術をうけた。母の入院中に父が「パーキンソン病」と診断され自分の予後が不安になり、「もう、これ以上一緒に暮らせない」「自分の機能維持に専念しなければ」と母の退院先が我が家に落ち着いた。

 

図7.ちゃんとついてきて!!

なにしろ私はCPとして50年以上も障害とともに充実した人生を生き続けた障害者自立生活のスペシャリストだ。いつでも、好きなところに行ける、それも自分の選択したペースで、ルートで行けるという自信がどれくらい大切なことかよく知っている。だから母が障害者として自立し積極的な生活態度を身につけるため自由なmobilityの手段として屋外での電動車いすの操作を教え、子供たちはたとえ僅かでも進捗があれば上手に褒めてくれた。


図8.親子2台の電動車いすで街へお出かけ

もともと、私が住んでいた家なので、トイレや風呂には手すりがついていた。日中は私と二人きりで「私と二人だから、私ができないから自分でしてみて」と歩行器を使ってトイレに行けるよう練習した。「こちらの手で、ここをもって、その次はここをつかんで」といちいち指示して動作を繰り返し教えると、徐々に自分でできる様になった。ついには自分でトイレに行って、自分で尿取りパッドの交換もする様になった。その尿取りパッドがなくなったら、最寄り駅にあるドラッグストアまで信号も渡って行きエレベータに乗り店員を捕まえ「これと同じパッドをください」と言ってレジ袋に一杯の尿取りパッドを車いすの後ろにかけてもらって帰ってきた。

このようにどんどん積極的になっていく変化を、たまに出会う孫に褒められると実にうれしそうにしていた。きっとそのときの自己効力感は計り知れなかっただろう。子供たちは盆正月とはいわず、何か変化があると聞いてはその都度帰省して会いに来たし、留学中の娘などは自分の卒業式に招いたりもした。車いすでアメリカまで行って孫の卒業式を祝い、そのあと2週間孫たちと海外生活を共にした。


図9.孫娘の卒業式で渡米

運動障害・うつ・認知症・失禁で寝たきりだった母は、食事が終わると家族中の洗い物までして、交通事故以来「あまり人混みには行きたくない」と言っていたのに、大阪城の梅・桜の花見、天満宮、天神祭、など大阪中に行き歩いた。子供たちが帰省するときまって、いつもと違う特別な場所へ「ごはん」にお出かけした。高齢になって重度障害者になってからの方が活発になって、孫たちと毎週のようにお出かけして暮らしている、こんな人はめったにないだろう。糖尿病で毎週通院するのも自分ひとりで電動車いすを操って行って帰ってきた。

2010年2月16日、そんな母も2003年以来、要介護になってからの実質5年間同居して,最後は癌と肺炎で永眠した。享年84歳だった。すぐに息子たちも駆けつけ、人生の後半はそれまでとは一風変わった自分らしさを再発見した母を、泣きながら見送った。母の最期の看取りも娘が同居していて、私達とは一味違う孫娘ならではのやわらかい眼差しと対応、空気で包み込んでいた。3人の子供は、いのちのつながりを大切にして人一倍の感性を発揮している。


図10.大人になった子供たち

 

9.子供たちは生き証人

娘の妙は2013年に、ある月刊誌に載った震災・原発をめぐる「出生前診断と原発」と題した文章の中で次のように述べている2)。「親が中絶を決断するのは、大抵、生まれてきてすらいない子供たちの将来に絶望するからでしょう。私の祖母も、母が脳性まひだと診断された帰りの電車で、母親の将来に絶望し、電車から母と一緒に飛び降り無理心中をしようとしたそうです。」「祖母の無理心中が成功していたのなら、私を含めた3人の子供が母から生まれてくることもなかったでしょう。私がこうして文章を書くこともないのです。選別的な中絶をするということは、その障害児の将来とそれに連なるすべての可能性を奪うことなのです。」と障害者の子供の立場からメッセージを発信している。

長男は、「母体の血をのぞき見てー母体血検査と原発」からの一連の私のプレゼンテーションのアイデアを出し校正してくれた。Webデザイナーの特技を生かして「いつかはあなたの街のことに 原発と優生思想」のブックレットの表紙(図11)のデザインや原稿編集・校正をすべて担った。

編集後記で後藤由美子さんは次のように述べ3)「古井正代さんとその母勝代さんが電動車いすで町を歩く姿は心を潤す。最も不都合だった『障害のある』娘によって導かれた母の姿は私たち自身だ。思えばその母の無理心中を引き止めこの子を家の真ん中において育てようと言った祖父母がおられたからこの冊子ができた。それは『いのち』に自分の都合を明け渡した人々の系譜だ。表紙、その他のデザイン、編集はその古井さんから生ま
 図11.ブックレットの表紙・p8・p41

  
れた古井昇さんの手による。四一頁の両手のひらに横たわる小さな命の姿に息をのんだ。『未来に生きる声なき声を聞いてください』の始まりは、まさしく彼の声ではないのか。」と彼の心中を代弁している。

 


図12.辺野古ゲート前でアピール

次男は2016年に私が辺野古基地反対のために沖縄で行動したときの介助や移送を、ひたすら裏方に徹して担っていた。このように、子供たちは優生思想に抗う生き証人として、3人3様のやり方で、今の私達の活動や行動を具体的に支えてくれている。

 

10.おわりに

障害者のリプロダクティブ・ヘルスライツ(性と生殖に関する権利)や人間としての尊厳が平気で踏みにじられてきたのはそんなに昔の話ではない。脳性まひ者の佐々木千津子さん4)は、自分のせいでお姉さんが見合いを断られ、家にいたたまれなくなって施設に入所しようとし、1968年に放射線による不妊手術を受けさせられた。日本では戦後「優生保護法」(1948~96年)という法律のもとで行われ、未だに謝罪や保障など誠意ある対応はない4)。「優生保護法」では胎児条項により障害児を出生前に葬ろうとした歴史もあり5)「不幸な子供の生まれない運動」は未だに其の支持者が世間を闊歩している6)7)。産科医療保障制度で脳性まひを保険リスクの対象としたり8)、原発による内なる優生思想の席巻で9)、相模原事件が無くても、障害者を何時でも合法的に殺せるシステムが形を変え不可視なものになりつつある。

こんな時代だからこそ、障害者が隣人として、地域の中で際立った存在として暮らしながら、共生社会への道程を示し、具体的に行動をすることに特別の意味がある。

 

文献

1)山内逸郎:母乳についての22の手紙,71-74,山陽新聞社,1991

2)古井 妙:ACTIONポジティブな女たち「出生前診断と原発」, 女性情報 2013(9),24-25, 2013

3)後藤由美子:編集後記, いつかはあなたの街のことに優生思想と原発編集実行委員会(編),55,「いつかはあなたの街のことに優生思想と原発」,2016

4) 優生手術に対する謝罪を求める会,優生保護法が犯した罪―子どもをもつことを奪われた人々の証言,現代書館,2003

5)利光恵子:受精卵診断と出生前診断, 71,生活書院,2012

6) わたしたちの内なる優生思想を考える会:「不幸な子どもの生まれない運動」への称賛を公言してはばからない兵庫県立こども病院への抗議文2017年11月1日.http://cp-research.jp/?p=1663 最終アクセス2017年11月30日

7) 毎日新聞:2017年11月1日:兵庫県立こども病院:病院誌に障害児不妊称賛 関係団体抗議へ https://mainichi.jp/articles/20171101/ddn/012/040/043000c 最終アクセス2017年11月30日

8)古井正代:「本来あってはならない存在」の立場から産婦人科医療補償制度を斬る, 女たちの21世紀,56(10),28-30,2008

9) 古井正代:母体の血をのぞき見てー優生思想と原発, いつかはあなたの街のことに優生思想と原発編集実行委員会(編),10-13,「いつかはあなたの街のことに優生思想と原発」,2016

 

古井正代<協会誌_2018>0311coloer8259文字

 

 

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