福島の人たちの人権は、今、

2012-08-13

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福島の人たちの人権は、今、この瞬間も間違いなく侵され続けているのです。私たちは原子力発電所の廃炉が地球の未来にとって重要であることを訴えるとともに、現実にはどんどん深刻化しながらも、まったく手の打たれない人命軽視や健康被害の無視について戦わなければいけないと思います。チェルノブイリやスリ-マイルの教訓が示す世界の常識から、せめても「中通り」と言われる地域に住む人たちは、その地域から避難させて、生活できるように保障していかなければならないのです。実際に、その地域に住んでいる人たちが自ら声をどこまで上げられるのかというと、ほとんどの人が声を上げられないでしょう。心のどこかでは、このままでは良くないと誰もが直感していながら、声に出すことを躊躇させる社会的圧力が強すぎます。今、現実に起こっていることを自分への脅威の問題として捉えられないような状態におかれているのです。こんな「あたりまえ」のことが「あたりまえ」にならない現実には根の深い社会の闇が伺えます。この国の近代史における障害に対する社会的態度と障害者自身も含めた人権軽視と似たようなルーツをもつのかもしれません。

 

1.役割期待

私たち障害は生まれる以前から、あってはならない存在、五体不満足な「落ちこぼれ」として位置づけられてきました。みんなの目が同情のまなざしを注ぐ対象としての「かわいそうな存在」の社会的役割だけを期待されて育てられてきました。だから、ありのままの自分を積極的に捉え自分自身の健康について考えるよりも、障害を持った身体を少しでも「健常」な姿形や「機能」に近づかせることを追い求める環境にどっぷりとつかってきました。歩けない障害者は健常者のように歩けるようになること、そのために手術をしたり、一日に何時間も歩く練習させられたり、ただひたすら個人レベルで「がんばる」ことだけが期待され、自分の身体状況に関係なくそれを信じ込まされてきました。









 

 

 

 

 

内部被爆の基準値が、原発事故の後に恣意的に大幅に引き上げられました。そのうえ指定区域から住民が避難し、仮説住宅が建設された先は、ほとんどが県内の「中通り」です。全壊・半壊で「指定地域以内」でなければ被災証明による支援も受けられません。「指定地域」でなければ、移住を決意しても、他府県の公営住宅への入居さえ許されません。政府の証明が無い人たちには、いくら健康被害への不安があっても、地元に止まりただひたすら「がんばる」ことだけが期待されているのです。福島産の食品はすべて「安全」だと信じ、あえて地元の水を飲み、地元で取れた農産物・水産物を食べ続けることが当たり前となっているかのようです。「中通り」に住む大多数の福島の人たちは、県外へ自主避難しようにも、行った先の受け入れも無く、残留しなければ経済的にも生活がなりたたない厳しい現実があります。郷土を去る必要を国が認めるのは、被害のため生活が奪われた少数の「かわいそうな存在」に限定したいという政府の意図を感じます。証明も無く福島県外に移住すれば、それは郷土愛のない者とでも言われかねない空気なのです。原発事故の後に、健康被害の可能性がとりざたされても、大丈夫だと信じ込まされ地元で「がんばり続ける」人々の姿は、障害者が身辺自立に不可欠だと信じ込まされ歩行訓練に努力しつづけたときの姿と酷似しているように感じます。

 

 

2.過剰な「がんばり」の結果としての健康問題

2001年、イタリアのBottosという研究者が、まだ発育途中の3-8歳児で歩行能力を獲得する前の脳性まひの子供たちを29人集めて、個々に合わせ調製した電動車いすを与えて操作能力の向上についての介入実験を行いました。運動能力がばらばらで知的能力もばらばらな子供たちを6-8ヶ月間調べた結果、操作能力を左右したのは運動機能でもIQでもなく、「練習時間」の長さだけであったと報告しました。また、介入前後で、大きく変化したのは親の子供に対する期待で25人中21人が「運転できないだろう」と否定的だったが、8ヵ月後には25人中23人が肯定的評価で、当初否定的だった21人の親全員が「子供が活発で幸せになった」と言ったといいます。

この実験から言えることは、どんな脳性まひの子供でも、金に糸目をつけず、きっちりとエンジニアが一人ひとりにあわせカスタマイズした電動車いすを与え、練習できる機会さえあれば、電動車いすを乗りこなせるということです。子供は元来好奇心の塊なので環境や条件さえ整えるだけで、大人が気付かないようなことに興味を示し、それらに果敢に挑戦しながら自己形成が図られていったのでしょう。こどもの可能性を開花させるには、まず「挑戦させる」、そのための条件整備を「やってみる」という大人側の覚悟が必要です。

ところが、日本の脳性まひの子供たちでは、歩ける年齢になる前から電動車いす給付をうけられるのは例外的です。欧米のように校区の普通学校に統合教育するのではなく、歩行訓練や障害に応じた対応が充実している環境だと言う根拠で、特別学校に通わせたりしてきています。一般の子供たちと触れ合って遊ぶ経験の場を取り上げ、自分に対する自信や成功体験による心の成長の機会を奪い、健常児と言われている子供たちにとっても自分たちの同世代の仲間として障害児がいると言う認識が育つ機会も奪ってきました。60年前から今だに、変わらない「歩行第一主義」の歩く訓練ばかりが強調され続けています。これが、子供の人生にどのような影響を及ぼしてきたのでしょうか。「歩けなくなったらおしまい」「車椅子は敗北」という価値観を形成させ、手術をしたり、一日に何時間も歩く練習させ、がんばって無理をすることが生きがいのような行動を刷り込むことになってきました。その結果は、今の40代50代60代の成人脳性まひ者が抱える深刻な健康問題を見ればよくわかります。ほとんどの人に頚椎・腰椎・股関節になんらかの二次障害がでています。最後の最後まで車椅子使わず、がんばって歩く、がんばることがいいこと、首や肩や腰が痛くても歩き続けた挙句、頚椎症などの二次障害を発症し、早い人では20代の後半から遅くても50代までには、若いときと同じように歩き続けることは困難になっています。一般の子供たちと触れ合う余裕も無い場所で育くまれた、20年後・30年後の健康問題に発展する過剰な「がんばり」に警鐘をならす多くの生き証人がいるのに、「がんばり」の刷り込み教育はなかなか止みません。

 

3.今、まず「やってみる」、それで未来は変えられる.

たしかに、40年後50年後の白血病や脳腫瘍、などの内部被爆の健康被害は今すぐに実感しにくいものでしょう。すでに、子供に甲状腺がんの兆しがあれば別ですが、そうでもなければ、環境変化の精神的負担・移住のための経済的負担を負ってまで県外移住を決意する人は多くないかもしれません。しかし、福島の子供達や指定区域外の住民は、若い日本の脳性まひ者のように、がんばって無理をすることが生きがいのような行動を刷り込まれていくのを、なんとか防げないものでしょうか?

さまざまな理由で移住したくても出来ない人を動かすには、イタリアのBottosたちの介入実験のような、徹底的なカスタマイズがヒントになります。「平等に支援を分配するため画一的な条件が必要だ」「個別ニードに対応するのは不可能」という従来型の対応では、本当に有効な移住促進策にはなりません。まず、福島県の「中通り」の子供達や住民が(政府の恣意的に狭く定めた区域指定にかかわり無く)移住しやすいような、思い切った周辺の諸条件の整備を行ってはじめて、個々の事情に合わせたカスタムメイドな対応を可能にする選択肢が用意できます。

たとえば、

l  電力会社に出資してきた金融機関の原発事故への社会的責任の一環として、子供のいる家族の持ち家の震災前の住宅ローンについて、避難移住することを条件に、たとえそれが10万円だろうと1000万円だろうと「全て平等に」無担保・無期限の凍結または棒引きとする

l  全国の空き教室を調査し、その空き教室をいくつかの校舎に集約し、中通の中学校・高等学校を全寮制学校として移住させる(出来れば小学校も)。寮には当該学校の教員を寮教師として配置するほか、寮監には地元大学等の保育・教育系学生を1-2年契約で優先雇用し、勤務経験を教育経歴として、任用中は本務校で休学扱いとする。

l  全国の自治体は移住希望者に対し公営住宅に優先的入居できるよう配慮し家賃を免除する、

l  全国の職業安定所・事業所が移住希望者を優先的に対応・雇用するよう、事業所所得税・国税の減免で誘導する

l  移住先の自治体は国保掛け金を免除し、税制上の優遇措置を講じる(国税の免除・地方税の減免)

 

 

など、移住したくても出来ない人の事情に実効性のある取り組みが必要ではないかと思います。

 

 

4.人権問題に対する軽視.

出来ていたことが出来なくなったら、職場を解雇されても当たり前だ。こんな考えを、障害者自身を含む実に多くの人が抱いています。こんなわかりやすい人権侵害に対して、疑問も感じず、何ら抗うことも無く、にもかかわらず障害者雇用促進には異論を唱えないのが不思議でなりません。障害者雇用促進を言うのなら、現職者の中途障害者を解雇させないことは当然のことでしょう。個人の「できる」「できない」が問題なのではなく、その個人が平等に働けるような職場環境の整備が不十分であることが、障害者の人権を侵しているのです。このことを、障害を理由に解雇された当事者自身が、職場や周囲に気を使い「人権問題」として捉えきれないところに問題の複雑さがあります。人権感覚とは決して目に見えない抽象的なものではありません。たとえば、アクセシビリティについて言うと、欧米では1980年代から、どんな家でも車いすで入れるトイレ、玄関の段差ゼロ、広いドアの必須3条件を満たす一般住宅しか新築を認めない都市が徐々に増えているといいます。施設主義から脱し地域社会に定着するためには欠かせないことです。一方、病院や公共施設には車いすで入れるトイレはあっても、一般家庭では隣人の家は言うに及ばず、自分の家でさえ車いすごとは入れるトイレがある家は珍しいのが日本の実情です。玄関の段差ゼロについては、銀行などいたるところ段差だらけです。日本では国際シンボルマークを掲げた駐車スペースに、我が物顔で平気で駐車していても何の罰則もありません。そのくせ電動車いすには法律で速度制限をもうけています。Bottosのように、本人に合わせカスタマイズする電動車いすで移動の自由を保障するどころか、運転免許のような試験を課して移動の自由を制限する所もあります。20年以上も電動車いすに乗りなれている私でも、調整なしで国産既製品に乗ればまっすぐ進める保障はありません。鉄道では簡易スロープの介助を理由に3-4本列車を待たせて乗せないことも珍しくありません。そもそも、ホームと列車の間の段差は人為的に作られたもので、段差なしのホームも技術的には可能なことです。航空機では国際線からの乗り継ぎであっても、国内線で乗車拒否をします。ある美容院では「会社の方針だ」と車椅子ユーザーを一切拒否し平然としています。個人の行動・移動の自由が基本的人権の一部だという国連の文言があっても、日本では、仏作って魂を入れずで、形骸化させても恥ずかしくないのでしょうか。私たちの行動・移動の自由が基本的人権として保証されれば、ベビーカーもシルバーカーやトランクを持った旅行者など、全ての人の行動・移動がより自由になるはずです。 そう考えると日本では、そもそも、障害者を含めた人間の尊厳や人命の尊重という意識自体が根本から希薄になって、誰も生き残れない社会に向かっているように思えてなりません。

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