Archive for the ‘障害者差別を許さない’ Category

いのちをまもりそだてる~障害者の地域育て・子育て~

2018-09-07

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

1.はじめに

私達が入籍するとき「古井の姓は彼女には使わせるな」と言われ、どちらの姓を名乗るか迷っていたのが、反発して迷わず古井の姓に決めた。何事も言われっぱなしだと障害者は暮らしていけない。
図1.お腹には3人目

子供ができたとき「結婚は仕方ないが子供は堕ろせ」と言われ、二人目ができたら「一人目はしかたないが二人目は堕ろせ」、三人目ができても「二人目はしかたがないが三人目はだめだ」と言われた。それ程、当時はまだ健常者だった親には想像もつかない生き方だったに違いない、後に脳梗塞になって障害者自立生活のスキルを獲得するまでは。

 

2.CPペースの育児にこだわる

たとえば、脳性まひ(CP)者は全身性障害で、母乳を与えるにはアテトーゼで力がコントロールできない手で首の据わらない新生児を抱えることになる。場合によっては床に落としかねない。でも、その抱かれ方が児にとって「当たり前」になるからこそ、きちんとした母子関係が育つのだと思ってきた。だから不随意運動の無い相方(透)に子供を抱かせるのは、授乳後の「げっぷ」と入浴の時だけに限った。

図2.首のすわらない長女を抱く
それでも、こどもは元来「快適さ」に敏感なので、おしめ換えひとつでも嫌がる子供と格闘したこともある。つくづく障害者の子育てを当の子供に慣れさせるのは根気の要る事だと実感した。3人の年子はこうしてアテトーゼの手で抱えられながら、3人とも母乳で育てた。障害者が母乳で子育てするのは珍しいようで、10年後NHKテレビの朝の連ドラの後の番組で私たちの子育てが紹介され、それを見た小児科医から母乳哺育への賞賛の手紙も届いた1)

 

3.育児も生活もご近所を巻き込んで

障害者運動で、いくら国や行政に主張してきても、私生活での隣近所との関係で人間つき合いをする機会はまれだった。しかし年子3人の子育てだったので、向こう3軒両隣のご近所との関わりなしには1日たりとも暮らせなかった。CP者が地域で仲間に溶け込むために、特に欠かせないのは、みんなの井戸端会議の場にしっかりと入り込むことだと思う。そうしておけば、いざというとき助けてもらえる。

上の娘は病院で産まれたが、2番目の男の子は自宅で早産だった。救急車を呼ぶのも、その誘導や、留守中の1歳の娘の世話まで、すべて隣近所が助けてくれた。遠くの身内より近くの他人が、障害者の生活には欠かせない。この緊急時の対応をきっかけに、我が家の扉は常に地域に開かれる(実際にあまり鍵をかけたことは無い)ようになった。


図3. オシメ90枚を干していた屋上もの干し場

当時紙オムツは高価で、毎日布オシメを90枚洗って干していた。透は3人の子供を順番にお風呂に入れ、お乳をやって寝かしつけて最後には私の入浴介護があるので、1日に3時間お風呂に行ったり来たりを裸で過ごす。そんな我が家の生活スタイルがユニークで近所の関心の的だったこともあるだろう。

 


図4.三時間のお風呂

そもそも人情味あふれる街中だったことも手伝って、晩御飯のおかずを持ち寄り近所同士で一杯やったりするオープンな、ご近所みな大家族のような付き合いが始まった。

透が神戸大学理学療法学科に入学し日中家事ができなくなった時、長女は8歳で、毎日の夕食を作らなければならなくなった。だから近所の子が「遊ぼう」と誘いに来ても「買物に行って料理作るから」と断っていた。それを見かねたご近所のSさんが「妙ちゃん今日は何にする?」といって、毎日の様に料理の方法を教えに来てくれて、包丁の切り方から、煮込み料理まで手取り教えてくれていた。

透に似たのか、末の次男はとにかく落ち着きが無く、いつもあちこち走り回っていた。下町の狭い路地だったので配送のトラックなどは、一旦バックしてからでないと路地を出られない。そんな時、よく次男が荷台の後ろにぶら下がったり、下に入り込むので、路地の塀との間に挟まれそうになる。すかさず「こらー勝!!危ない」と大声が路地に響き渡る。誰彼なく見守ってくれる、そんな日常だった。それでも、とうとう小学校2年のある下校時に、下り坂を駆け下り交差点に突っ込んで車にはねられた。脛骨腓骨を同時に骨折し入院した。その時は母親が障害者で付き添いができないので、24時間付き添い婦を事故の保険からつけてもらえた。

このように子供達3人とも地域で、たくさんの大人たちの眼差しや手に支えられて育った。あのころのあの地域の子供たちは総じて周りの大人達みなが関心を持ち、叱ったり教えたりしながら育っていた。

我が家が広島に引っ越した数年後に再訪したとき、ご近所の人たちが当時のことを異口同音に回想しては言っていた。今はもう昔のことだけど、あのころはみんなが誰彼なく地域で子育てしていた・・・・。

 

4.おばちゃん怪獣やねん

図5.三人の子供達と私
子供が幼稚園に通いだすと、その幼稚園の子供達に対しても、脳性まひ者である私が3人のこどもの親であり、健常者とは異なる人間モデルがあることを伝えねばならない。まずは、毎日子供の送り迎えで、普段から目立って、知り合っておく。

子供の誕生月に園で開かれる誕生日会では、親が子供にメッセージを伝える場面があった。毎年そこで子供達に向かって「みんなゴレンジャー見てるよね?ゴレンジャーが勝つとそれだけで喜んでしまうよね。でも、おばちゃんみんなと違うやろ?手足の動きも怪獣みたいに見えるやろ?ゴレンジャーがやっつける怪獣もみんなおばちゃんみたいやなあ。きっと怪獣もいろいろ感じたり、思ってるんとちゃうかな。見た目だけではわからんこともある。そういうことをいつも忘れんといてほしいな。」と語りかけた。

親や教師の中には目を潤ます人も、眉をひそめる人もいたが、子供達はたじろぎもせずまっすぐに聞いていたように見えた。こういう講話は、こどもが3年保育だったので6年間続いた。共育・共生を目指すには、キレイごとでは済まされない生身の人間同士が向き合う体験の積み重ねが欠かせない。時に、それは心地よくないこともあるかもしれない。

 

5.脳が死んでいても楽しく生きているよ

子供が学校に行きはじめても、行事ごとは常に脳性まひの母親である私が参加していた。学校の教員や近所の人がその送迎や学校内での移動の介助もしていた。障害者とつきあうというのは、そういう介助も含むということを、自分の周囲に広めながら日々を重ねていった。この古井スタイルの子育てがユニークなのでNHKテレビの朝の連ドラの後にある番組の取材が入り全国放送された。それからは地域の中学校には定期的に、近隣の高校でも口演をするようになった。

中学生にもなると、どんな高校に進学するのか「頭の良し悪し」だけが重要なのだと、周囲からも言われ、自分たち自身もそういう尺度にがんじがらめで苦しんでいた子が多かったに違いない。だから私が「おばちゃん、どこに障害があるかあてられるかな? 手か?足か?そう思うよね。でも実は、おばちゃんの脳みその一部が死んでいます。それも赤ちゃんのときから、今もこれからもずーっとです。」こう言ったとたん、それまで下を向いていた子供達が一斉にこっちを見て、「えーっ脳が死んでるの?」と話に聞き入ってくる。

さらに「脳みその一部が死んでいると命令が身体にうまくいかないので手足の動きが他の人とは違っている」ので、何をしても人々から奇異の目で見られることが多い。でもそれを「みんなが振り返るので、たくさんの人に挨拶できる」「めちゃめちゃ目立って、いい気分だ」に切り替えるというライフスキルを披露する。「電動車いすを使うようになって、どんな遠いとこでも、疲れず早く行けるようになった」など「できないことの強み」や、それを他人がどう言おうとポジティブに楽しむ観点をわかりやすく伝えようとした。すると「いつも授業なんか絶対聞かない、騒いでばかりいるような生徒が真剣に聞き入っていた」教師たちは毎回のように驚いていた。

 

6.M君の転校

これは、大人になった子供たちに言わせると必ずしも褒められた子育てではなかったらしいが、通信簿のような単一尺度で人を判断するのは優生思想につながるので、我が家では「勉強しろ」とか成績についてとやかく言ったことは無かった。だから、特に三人目の次男の授業態度は、授業中はノートもとらず、他の本を読んで過ごしていた。

ところが、クラスの多くの生徒が学習塾に通っていて、学校の授業自体がすでに習っている内容なので授業中はとても退屈だから起こったことかもしれない。授業中に、気の弱い性格の命令に逆らわないM君をはやしたて、机の上にあがる等の問題行動を起こさせ、クラスを混乱させるのが日常茶飯事だったと聞いていた。

一部の生徒が退屈しのぎでしていたことが、はやし立てられると素直に目立ってしまうM君にとって思いがけない結果を招いた。学級崩壊の元凶のように解釈され、近所にできた「特殊学級」にM君が転校させられるという話が、不運にもお父さんが亡くなった後で、なぜだか持ち上がった。

新設する特殊学級の成立要件などという、大人側の勝手な事情で、本人の意に反してクラスからM君を隔離しようとするそのやり方は、私達が子供時代、養護学校ができた頃にあちこちから子供をかき集めて何とか学校を成立させようとした、あの時とそっくりの様に思えた。

隔離と排除の論理による発想だと直感した私はPTAのお母さんたちを巻き込んで、いろいろな事例をあげながら話し合いを重ねた。5-6人のお母さんたちも強く反対しはじめた。しかし結果は、一家の大黒柱を失い弱気になったM君のお母さんが転校を受け入れてしまった。

私の息子の勝の方がよっぽど勉強できなかったのに、私がPTAでもはっきりと主張するから、私の息子にそんなことが起こらなかっただけにすぎない。大きな声をあげない人を追い込み、その存在自体を断ち切った。これでクラス中の生徒の心に優生思想をしっかりと植えつけてしまった。このやりきれない気持ちを勝や子供たちや少なくても数人の親たちとは共有できたとしても、やはり口惜しい・・・。

7.「3人目はだめだ」と言われた次男が介護

1996年 4月、兵庫県の郡部の町に住む透の父が脳梗塞で緊急入院した。透の母は足腰が弱く、視野狭窄もあり重い介護はできなかったので、当時中学3年になったばかりの次男が春休みから泊まり込んだ。新学期が始まってからも学校を休み、5月にリハビリテーション目的で大都市の病院に転院するまで、急性期の介助量が多い時期を、つきっきりで介護した。たしかに中学3年の1学期始めの1ヶ月を介護のために休めば、一般的には進学への支障も心配かもしれない。妊娠時「三人目はだめだ」と言われても、「僕が生まれる前のことは関係ない、よく面倒みて遊んでくれたおじいちゃんだから当たり前のこと。」と次男は迷いなく義父の介護を選んだ。


私についてきて!



図6 透の父の入院で息子が1ヵ月半介護

義父には右片麻痺が残り、失語症もあった。私は「いくら立って歩けても、健常者に、元の身体になるわけではないでしょう? なのに、過去の自分を追いかけさせるような、動作訓練にこだわるよりは、限られた人生の中で自由に、自分らしく生きられるように、もっと電動車いすを積極的に使い、自己決定の機会を増やす努力をしてほしい。少なくても私の義父にはそうなってほしい。」と、病院の担当者に訴えた。そして、義父は電動車いすで望みだった自宅へ退院し、障害者としての第二の人生を送った。

 

8. いのちのつながりと子供たち

私の母、子供らにとっての祖母は交通事故による頭蓋骨陥没と脳挫傷で退院後は、父が寝たままでおしめも替えて、靴下もはかせ・・すべてを身の回りの世話をして寝たきりになった。

私の生き方をよく知る子供たちの目には、どうみても過剰介護の悪循環に見えたようだ。そこで、孫ならでは許されるような最低限の介助で、関われる場面だけでも対応していた。すると不思議なことに母もそれなりに応じていた。さらに6年後、母に脊髄腫瘍が見つかり大学病院で入院手術をうけた。母の入院中に父が「パーキンソン病」と診断され自分の予後が不安になり、「もう、これ以上一緒に暮らせない」「自分の機能維持に専念しなければ」と母の退院先が我が家に落ち着いた。

 

図7.ちゃんとついてきて!!

なにしろ私はCPとして50年以上も障害とともに充実した人生を生き続けた障害者自立生活のスペシャリストだ。いつでも、好きなところに行ける、それも自分の選択したペースで、ルートで行けるという自信がどれくらい大切なことかよく知っている。だから母が障害者として自立し積極的な生活態度を身につけるため自由なmobilityの手段として屋外での電動車いすの操作を教え、子供たちはたとえ僅かでも進捗があれば上手に褒めてくれた。


図8.親子2台の電動車いすで街へお出かけ

もともと、私が住んでいた家なので、トイレや風呂には手すりがついていた。日中は私と二人きりで「私と二人だから、私ができないから自分でしてみて」と歩行器を使ってトイレに行けるよう練習した。「こちらの手で、ここをもって、その次はここをつかんで」といちいち指示して動作を繰り返し教えると、徐々に自分でできる様になった。ついには自分でトイレに行って、自分で尿取りパッドの交換もする様になった。その尿取りパッドがなくなったら、最寄り駅にあるドラッグストアまで信号も渡って行きエレベータに乗り店員を捕まえ「これと同じパッドをください」と言ってレジ袋に一杯の尿取りパッドを車いすの後ろにかけてもらって帰ってきた。

このようにどんどん積極的になっていく変化を、たまに出会う孫に褒められると実にうれしそうにしていた。きっとそのときの自己効力感は計り知れなかっただろう。子供たちは盆正月とはいわず、何か変化があると聞いてはその都度帰省して会いに来たし、留学中の娘などは自分の卒業式に招いたりもした。車いすでアメリカまで行って孫の卒業式を祝い、そのあと2週間孫たちと海外生活を共にした。


図9.孫娘の卒業式で渡米

運動障害・うつ・認知症・失禁で寝たきりだった母は、食事が終わると家族中の洗い物までして、交通事故以来「あまり人混みには行きたくない」と言っていたのに、大阪城の梅・桜の花見、天満宮、天神祭、など大阪中に行き歩いた。子供たちが帰省するときまって、いつもと違う特別な場所へ「ごはん」にお出かけした。高齢になって重度障害者になってからの方が活発になって、孫たちと毎週のようにお出かけして暮らしている、こんな人はめったにないだろう。糖尿病で毎週通院するのも自分ひとりで電動車いすを操って行って帰ってきた。

2010年2月16日、そんな母も2003年以来、要介護になってからの実質5年間同居して,最後は癌と肺炎で永眠した。享年84歳だった。すぐに息子たちも駆けつけ、人生の後半はそれまでとは一風変わった自分らしさを再発見した母を、泣きながら見送った。母の最期の看取りも娘が同居していて、私達とは一味違う孫娘ならではのやわらかい眼差しと対応、空気で包み込んでいた。3人の子供は、いのちのつながりを大切にして人一倍の感性を発揮している。


図10.大人になった子供たち

 

9.子供たちは生き証人

娘の妙は2013年に、ある月刊誌に載った震災・原発をめぐる「出生前診断と原発」と題した文章の中で次のように述べている2)。「親が中絶を決断するのは、大抵、生まれてきてすらいない子供たちの将来に絶望するからでしょう。私の祖母も、母が脳性まひだと診断された帰りの電車で、母親の将来に絶望し、電車から母と一緒に飛び降り無理心中をしようとしたそうです。」「祖母の無理心中が成功していたのなら、私を含めた3人の子供が母から生まれてくることもなかったでしょう。私がこうして文章を書くこともないのです。選別的な中絶をするということは、その障害児の将来とそれに連なるすべての可能性を奪うことなのです。」と障害者の子供の立場からメッセージを発信している。

長男は、「母体の血をのぞき見てー母体血検査と原発」からの一連の私のプレゼンテーションのアイデアを出し校正してくれた。Webデザイナーの特技を生かして「いつかはあなたの街のことに 原発と優生思想」のブックレットの表紙(図11)のデザインや原稿編集・校正をすべて担った。

編集後記で後藤由美子さんは次のように述べ3)「古井正代さんとその母勝代さんが電動車いすで町を歩く姿は心を潤す。最も不都合だった『障害のある』娘によって導かれた母の姿は私たち自身だ。思えばその母の無理心中を引き止めこの子を家の真ん中において育てようと言った祖父母がおられたからこの冊子ができた。それは『いのち』に自分の都合を明け渡した人々の系譜だ。表紙、その他のデザイン、編集はその古井さんから生ま
 図11.ブックレットの表紙・p8・p41

  
れた古井昇さんの手による。四一頁の両手のひらに横たわる小さな命の姿に息をのんだ。『未来に生きる声なき声を聞いてください』の始まりは、まさしく彼の声ではないのか。」と彼の心中を代弁している。

 


図12.辺野古ゲート前でアピール

次男は2016年に私が辺野古基地反対のために沖縄で行動したときの介助や移送を、ひたすら裏方に徹して担っていた。このように、子供たちは優生思想に抗う生き証人として、3人3様のやり方で、今の私達の活動や行動を具体的に支えてくれている。

 

10.おわりに

障害者のリプロダクティブ・ヘルスライツ(性と生殖に関する権利)や人間としての尊厳が平気で踏みにじられてきたのはそんなに昔の話ではない。脳性まひ者の佐々木千津子さん4)は、自分のせいでお姉さんが見合いを断られ、家にいたたまれなくなって施設に入所しようとし、1968年に放射線による不妊手術を受けさせられた。日本では戦後「優生保護法」(1948~96年)という法律のもとで行われ、未だに謝罪や保障など誠意ある対応はない4)。「優生保護法」では胎児条項により障害児を出生前に葬ろうとした歴史もあり5)「不幸な子供の生まれない運動」は未だに其の支持者が世間を闊歩している6)7)。産科医療保障制度で脳性まひを保険リスクの対象としたり8)、原発による内なる優生思想の席巻で9)、相模原事件が無くても、障害者を何時でも合法的に殺せるシステムが形を変え不可視なものになりつつある。

こんな時代だからこそ、障害者が隣人として、地域の中で際立った存在として暮らしながら、共生社会への道程を示し、具体的に行動をすることに特別の意味がある。

 

文献

1)山内逸郎:母乳についての22の手紙,71-74,山陽新聞社,1991

2)古井 妙:ACTIONポジティブな女たち「出生前診断と原発」, 女性情報 2013(9),24-25, 2013

3)後藤由美子:編集後記, いつかはあなたの街のことに優生思想と原発編集実行委員会(編),55,「いつかはあなたの街のことに優生思想と原発」,2016

4) 優生手術に対する謝罪を求める会,優生保護法が犯した罪―子どもをもつことを奪われた人々の証言,現代書館,2003

5)利光恵子:受精卵診断と出生前診断, 71,生活書院,2012

6) わたしたちの内なる優生思想を考える会:「不幸な子どもの生まれない運動」への称賛を公言してはばからない兵庫県立こども病院への抗議文2017年11月1日.http://cp-research.jp/?p=1663 最終アクセス2017年11月30日

7) 毎日新聞:2017年11月1日:兵庫県立こども病院:病院誌に障害児不妊称賛 関係団体抗議へ https://mainichi.jp/articles/20171101/ddn/012/040/043000c 最終アクセス2017年11月30日

8)古井正代:「本来あってはならない存在」の立場から産婦人科医療補償制度を斬る, 女たちの21世紀,56(10),28-30,2008

9) 古井正代:母体の血をのぞき見てー優生思想と原発, いつかはあなたの街のことに優生思想と原発編集実行委員会(編),10-13,「いつかはあなたの街のことに優生思想と原発」,2016

 

古井正代<協会誌_2018>0311coloer8259文字

 

 

The 淀川 2018年5月号 「合理的配慮とは」

2018-05-13

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

 

「ザ・淀川」は「淀川区の今と昔と未来を結ぶコミュニティ新聞」として創刊37年のタウン誌です。毎月90,000部を発行し、大阪市淀川区民に全戸配布されてきました。2017年の5月から隔月で連載記事を載せてきましたので、ここに紹介します。

 

 

連載7回目の2018年5月号の16ページでは、「合理的」配慮とは本来は、障害者に対する恩恵や特別扱いなどではなく、それ自体が社会的挑戦であり、産業技術や企業活動や障害当事者や周囲の人の全てにとって「合理的」であるという確信が社会に浸透していることが前提です。

いつまでも「特別・特殊」「おなさけ福祉」の延長線から抜けられない日本では、どう足掻いても障害者は迷惑者でしかなく、だからこそちょっと何かがあると「あってはならない」と考えられてしまうのです。

 

 

The 淀川 2018年3月号 「不幸とは」

2018-05-13

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

 

「ザ・淀川」は、「淀川区の今と昔と未来を結ぶコミュニティ新聞」として創刊37年の歴史を持つ、毎月90,000部を発行し、大阪市淀川区民に全戸配布されてきたタウン誌です。昨年の5月から隔月で連載記事を載せてきました。

 

 

2018年3月号の24ページでは、 「不幸とは」と題して、原発事故による放射能汚染をきっかけに露骨になってきた優生思想復活の象徴的出来事として、1966年の金井元彦知事の「不幸なこどもの生まれない運動」に対する称賛記事が昨年の「兵庫県立こども病院移転記念誌」に掲載されたことをとりあげました。

 

実をいうと、その当の本人の金井知事とは、私が中学のとき油絵を描いていたので応援してくれたお礼にと絵を寄贈し、それが新聞記事になって握手までしていました。私と握手しながら知事は腹の底で「こんな不幸なこどもは生まれてはならない」と秘かに確信していたのでしょうか?

「不幸なこども」と決めつけて、あなたのためだから、と亡き者にする。昔から繰り返されるこのような偽善的殺人は、今も無くなるどころか、親の「自由」意思による自己決定として巧妙に形を変え、ますます盛隆しているように感じます。

 

The 淀川 2018年1月号 「65歳問題」

2018-05-13

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

 

 

 

「ザ・淀川」は「淀川区の今と昔と未来を結ぶコミュニティ新聞」として創刊37年を経た、毎月90,000部を発行する、約50ページ程度のタウン誌で、大阪市の淀川区民に全戸配布されています。

 

 

 

2018年1月号の24ページでは、「65歳問題」をとりあげて、「お世話してあげる」ことを金科玉条とする介護保険制度が、実は、いかに障害者自立生活を切り捨てるものなのか介護保険拒否の活動を紹介し、そんなことなど、これまで全く予想だにしていなかった世間の圧倒的多数の人達に、やがて自分達に関わる問題として認識してほしくて、訴えています。

 

 

 

 

訴えました。

 

 

 

The淀川 2017年9月号 「もっと自由に!電動車いす①」

2018-05-12

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

 

 

「ザ・淀川」は「淀川区の今と昔と未来を結ぶコミュニティ新聞」として創刊37年の毎月90,000部を発行するタウン誌で、大阪市の淀川区民に全戸配布されています。

 

2017年9月号では、「もっと自由に!電動車いす②」として、

障害をめぐる制度や、障害に対する障害者自身や健常者の考え方についての日米の違いから、障害者が不自由なのは障害があるからではなく、「健常者が良い」とする不自由な考え方に囚われている人ばかりだと、障害者が二級市民としてしか扱われず、不自由を強いられしまう、ということをわかりやすく説明しました。

 

 

 

 

65歳障害者差別問題: 障害者が生きることを放棄させる人権問題です。

2018-01-02

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

介護保険は健常者の「あんな姿になったらおしまい」という優生思想から創られた保険制度で、生きるための人権とは発端が違います。
——————————
[介護保険は障害者が障害者のままで生きることを放棄させる]人権問題です。

11月17日大阪市役所に以下の要望書を持って何が障害者の人権問題なのかを説明、抗議して来ました。
障害者福祉サービスは、個人の障害者が生活する上でそれに必要な物や介護を提供することをまだまだ不十分ながら、権利として勝ち取って来ました。

しかし介護保険は、そもそも当事者の声を無視しており、健全者が障害を持つこと、いわば障害者の初心者であるということを認めようとしていません
あくまでも健全者のようになることが目的で、ありのままの障害者の存在を支援するという視座がまったくありません。
「障害者として生きる」ことが含まれていないのです。
つまりそんな介護保険を強要することは「障害者権利条約」に違反することになります。
合理的配慮のない介護保険は、障害者差別解消法にも反します。

11月27日「介護保険は強制ではないので、無視してください」と大阪市福祉局高齢者施策部 介護保険課担当係長三上一郎氏から私に連絡が入りました。
大阪市福祉局は私の誕生日が12月11日なので、12月9日に介護保険へと切り替えさせるために障害福祉サービスを止めるべく画策していたのです。
それで、私は12月5日区役所に出向き、障害福祉サービスを継続させるための手続きを済ませました。
そして12月12日、ようやく障害福祉サービス受給者証が届きました。当初は中途半端な時期に切ったので12月10日から12月31日の期間でしたが、年が明けて、私の現在の障害福祉サービス受給者証の支給決定期間は従来どうり1月1日から12月31日までの1年間有効となっています。

障害を持つ自分に誇りを持って地域で生活し続けるため、65歳になっても介護保険の申請を拒否し、従来からの障害者総合支援法の活用を呼びかけます。

多くの仲間に拡散してください。
古井正代-

_______________________________________________________________________________________________

障害を持つ自分に誇りを持って地域で生活し続けるため、私は65歳になっても介護保険の申請を拒否し従来からの障害者総合支援法のままでいくことを求めます。
2017年11月17日
大阪市長  吉村 洋文  殿
脳性まひ者の生活と健康を考える会
大阪市西成区岸里3-7-1-904 在住
古井 正代戦後になって賃金でも社会保険制度でも生活が支えられない場合には,国民の権利として公的扶助制度を利用できる社会保障制度体系が日本で初めて整えられ、国民の生存権を保障する体制が整いつつありました。
しかし、社会的入院や増え続ける高齢者医療費や寝たきり老人問題への解決策として2000年から介護保険制度が施行されました。残念なことに、それまで障害者支援で培われた当事者の声を反映しようとするポリシーが全く引き継がれないまま、急を要する国策として作られたのです。当時こんなことがありました。身体障害者の制度で体にあった車いすをオーダーメード出来ていた40歳以上の脳卒中片麻痺者の人の低床型の車いすについてです。2000年介護保険に切り替わったとたん、自分の片手片足でこげないようなリース品にしろと言われたのです。考えてもみてください、3月31日まで国民の権利として保障されていた移動の自由を、4月1日から年齢を理由にいとも簡単に「共助制度」の責任だとされたのです。それまで身体障害福祉でやってきたことは税金の無駄使いだったのでしょうか?「機能低下を来させることが介護保険の目的なのか」と厳重に抗議すると、今度は何の謝罪もなしに低床型オーダー車いすを業者に買わせて「これでいいだろう」とリース品使用を押し付けたのです。
このように介護保険は初めから、一定以上の年齢の障害者の権利や人間としての誇りなど眼中になく、我慢させることから始まったのです。障害者に対し年齢を理由に、障害の本質である個別性とは真逆の画一性を強引に押しつけ、権利を放棄させようとする歴史が今も続いていると言わざるをえません。
介護保険によって普遍的な保障を理念とした措置制度から契約制度へ移行し,応能負担から応益負担への転換が老人福祉に導入されました。定率の利用者負担が採用されたことで,低所得者の利用を絶対的・相対的に抑制しているともいわれ、本来の利用ニーズにプレッシャーをかけ続けてきたのです。
現実に脳性まひ者の私自身には、2003年から頭部外傷と脊髄腫瘍で動けなくなった母を我が家で引き取って、2010年まで同居して看取った経験があります。最後の2年、母は要介護5でした。にもかかわらず「横だしサービス」の全額と利用料自己負担1割で月額10万円以上支払い、それだけではケアが足らず、この重度障害者の私が母を毎日3時間くらい「介助」してなければ生活が成り立たちませんでした。これを「互助」のあるべき姿とでも言うのでしょうか。
なぜ老いた母が重度障害者の私を頼ったのか、そんな素朴な疑問もわきませんか?
その答えは、障害を持つことが悪いことだという優生思想が、あまりに世間に蔓延していて、道具や他人の力を利用しながらでも誇り高く生きられる生活モデルが、「障害者自立生活」以外に見当たらなかったからではないでしょうか。
日本の脳性まひ者は障害者運動のパイオニアで、日本中に自立生活センターが普及する1980年代よりも15年以上前から、地域社会で自律的に生活してきた歴史があります。制度のない時代から、地域に生きる脳性まひ者は、自分で介護者を見つけ、人間関係を築きながら介護を教え、人間のあり方を世間に問い、自分たちの介護体制を自分たちのイニシアティブで作ろうとしてきました。
共生社会を目指すことが、どんなにいばらの道であったのか、私たちは身をもって体験し、骨身を削りながら、世に問うてきました。
大阪市営地下鉄の、すべての駅に全国に先駆けてエレベーターがついたのも、ガイドヘルパーや支援費制度など、まがりなりにも、現在まで障害者支援やバリアフリーが整ってきたのも、私たち日本の脳性まひ者をはじめとする重度障害者の長年のいばらの道の副産物といえるのです。
たとえば、身体障害者の等級制度にしても、傷痍軍人での四肢の欠損がモデルで、画一的な階層性が戦後の当初にはあったのです。しかし、手足があっても上手く動かない、だから社会的不利は手足のない人よりはるかに大きい、そんな全身性運動障害の当事者が脳性まひ者なのです。その当事者が直接、生の声で粘り強く国に改善を求め交渉を重ねたからこそ、その後、さまざまな中枢性運動障害に対応できるような障害表記や等級となった経緯があるのです。
このように障害者制度は、当事者の身体をはった、骨身を削った取り組みや、生の声が羅針盤になって様々に形作られたり、変わったりしてきたのです。私自身も20代から障害者の人権を主張し、地域社会のユニークなメンバーとして、誇り高く生きてきました。これからも脳性まひ者、障害者として、引き続き地域に根を張って生活していきたいと思っています。
介護保険制度は障害者の特性を軽視するだけでなく、マジョリティ重視の市場主義を導入し、障害支援や介護を商業化させたのです。民間企業の参加しやすさに気を配るあまり、利用者や当事者の主体性や社会参加への視点は、障害者支援制度に比べはるかに薄いのが介護保険です。障害者から見ると、介護保険は専門家と行政主導で推進・運営されてきたように思えるのです。介護予防にしても、つまりは利用者を減らす事が目的で、障害者排除の優生思想にいつでも接近する危険をはらんでいると感じます。
介護保険制度は障害者支援とは目的・出所・成り立ちから違います。それがパターナリズムだという証拠は、介護保険で「自立」と言えば、何もかもを独りで介助なしにすることをいい、障害者の「自立生活」の概念との整合性など一切考慮されていないことで明らかです。このような健常者モデルの身辺自立一辺倒の発想では、障害者権利条約における合理的配慮の何が「合理的」なのかについて、私達障害者とは真逆の解釈をしているに違いありません。
私は今年で65歳を迎えます。障害者が65歳になれば従来受けてきた障害者総合支援法のサービスから、高齢者専用の介護保険のサービスに切り替わる(介護保険優先の原則)と言われても、私は幼いときから脳性まひの障害とともに生きてきましたし、これからも脳性まひ者として生きていきます。繰り返しますが、産まれてこのかた一度たりとも「健常者」であったこともないし、今後の私の人生でも障害がなくなる見込みなどありません。それなのに65歳になると、なぜ普遍的保障の障害者総合支援法から健常者モデルの自立観に立脚した共助の介護保険になってしまうのか、全く納得ができません。
負担の公平性ということを建前にするなら、なぜ差別解消法が必要だったのかと問いたいと思います。そもそもわれわれ全身性障害者が合理的配慮をもって健常者と公平に扱われてきたことがないからこそ、それを解消する必要があったのではなかったのではないでしょうか。私の脳性まひ者としての誇り65年の道程と、それに続く共生社会への未来を黙殺しないでください。
私が介護保険のサービスを受けることを仮定するだけで、当然ながら様々な矛盾・問題が噴出します。以下に、想定される問題・矛盾を列挙しますので、これらに対する大阪市の見解・見識を私にもわかるように説明してください。
①  障害者が65歳になると、今まで受けてきたサービスが継続できなくなる恐れがあります。障害者総合支援法の補装具給付で自分に見合った電動車いすが支給されたものの修理やメンテナンスは、65歳を過ぎるとどうなるのか不安です。
②  2015年からは介護保険の自己負担額が2割になって介護保険サービスに変わると、今までのサービス料金体系が変わり負担が増えることを危惧します。もしも母が入院・入所していたらコストはもっとかかっていたでしょう。母には元気なとき働いて余分に掛けた年金と定年まで蓄えた貯金があったので何とかしのげましたが、若いときから収入が障害基礎年金しかない私には、そのような自己負担もできないでしょう。いくら要介護5になっても、母よりもはるかに薄いサービスしか購えず、1日のかなりの時間を介護なしに放置されるでしょう。生まれながらの全身性障害者に自助や応益負担を求めるのは、こういう意味なのです。
③障害者総合支援法と介護保険の制度上の違いにより、サービス利用の区分・格差の不合理な問題が起きて、障害者本人や家族たちを混乱させ、サービスの利用における内容制限や新たな負担問題などをつくり出しています。
③  障害者総合支援法第7条(介護保険優先原則)の規定によって、障害福祉サービスであっても、介護保険に「相当」「類似」するサービスは介護保険での提供とされ、その結果住民税非課税世帯でもサービスは利用料を徴収されるのでしょう。
④  私は現在、障害者総合支援法の「重度訪問介護」等のサービスを受けていますが、介護保険には重度訪問介護のサービスはありません。重度訪問介護のサービスが打ち切られる可能性があります。私の誕生日が過ぎても、特別措置で重度訪問介護が認められるかもしれませんが、私の障害の変化によって、重度訪問介護の介助量が増えていくことも考えられます。そのような場合、介護保険適用では支給量のアップを認めるのですか?
⑥障害者基本法の第1条には《障害者の自立及び社会参加の支援のための施策の推進》が唱われています。そしてまた、この障害者基本法の基本理念に則った障害者総合支援法の第1条では《障害者及び障害児が基本的人権を享有する個人としての尊厳にふさわしい日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付、地域生活支援事業その他の支援を総合的に行い》と規定されていますが、これに対し介護保険法第1条では《加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他医療を要する者について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要
な保健医療サービス及び福祉サービスに係わる給付を行うため》と規定されています。このように障害者総合支援法と介護保険では明らかな違いが見られます。
介護保険は個別的な社会参加という概念がまったく含まれていません。これまで私は、障害者問題・社会問題に取り組みながら多くの人々と関係を築きながら、街の中に出かけたりしてきました。にもかかわらず、65歳を過ぎると、障害者支援にあった外出に対する支援が介護保険になく、事実上社会参加が制限されてしまうのです。これでは、介護の必要な者は、ますます介護者を見つけるのも困難になり、結果的に更に社会から孤立することになりませんか?
⑧「重度訪問介護」では都道府県知事から必要な知識及び技術を有すると認められる旨の証明書の交付を受けた者及び重度訪問介護従事者養成研修を受けた者もヘルパー資格が認められています。私の友人の中には自分たちで努力して開設した事業所でヘルパーを派遣している人もいますが、そこのヘルパーの多くは、友人たちと長い時間を共有して脳性まひの介助の仕方を学んでいます。しかし、介護保険関係の事業所に私たちの特殊性を理解し、当事者のイニシアティブを尊重する介助を行えるヘルパーが育つ余裕があるでしょうか?介護保険になった途端に、障害特性を「我儘だ」などと誤解されながら、また長い時間とエネルギーを費やし教育に取り組まなくてはなりません。障害が重くなればなるほど、障害の特殊性を理解し、
言葉にならない思いを傾聴する態度が重要となってくるので事態はさらに深刻です。
何が何でも介護保険に無理やり一体化するというのは、全身性障害者の視点からすれば、きわめて重大な人権侵害・存在否定そのものなのです。
以上、私の65年培ってきた障害者としての生き様と、介護保険に対する障害者の立場からの主張を述べてきました。これらのことから、私は全身性障害者として地域での私らしい生活を維持していくために、65歳になっても介護保険を拒否し、障害者総合支援法のサービスの適用を要望します。
現在、全国の65歳を過ぎた全身性障害者の仲間たちと各地方自治体との間で多くの摩擦が生じ裁判沙汰になっている地方自治体もあるようです。社会保険には【短期受給者証】があって1年にならなくとも何か月かごとに受給者証の交付を行なうことができ、東京や神奈川では1か月から半年間の短期証として65歳以上でも障害者総合支援法の受給者証の交付を継続している例があります。介護保険と障害者総合支援法との関係で、ある人が厚生労働省に問い合わせたところ、「65才になれば原則介護保険が優先されます。しかしこれはあくまで優先で、全身性障害者の場合等は必要に応じて100%総合支援法を適用することは可能です。個別事例については自治体の考え次第です」と述べています。
私の求めを黙殺せず、共生社会に向かって「大阪を前に進める」そんな心の通った市長と大阪市であるようにと、心より願っています。
 

相模原事件の報道に思う

2016-08-21

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

2016年7月、障害者施設に元職員が侵入し「障害者は生きていても仕方がない」」「安楽死させた方がいい」と大量殺人事件が起きた。こういう事件のたびに、マスコミは犯人探しと犯人の異常性をクローズ アップした報道に躍起になる。そしてこの報道で、人々は自分たちの生活とはかけ離れた残忍な事件なのだと錯覚する。だが「障害者殺し」は想像を絶する別世界の問題でも、悪意に満ちた人だけが起こす出来事でもない。

ごく普通に多くの人々が抱く障害に対する否定的な感情やそれに関連する価値観~例えば子供ができたら「男女どちらでも健康が何より」だとか、歳を取ると「いつまでも若々しく」「迷惑にならないように」とか、私たち障害者を見れば「あんな姿にはなりたくない」とか~誰もが「常識」と信じて疑わない「ものの見方」の根底に、生命の尊厳と人間の誇りをズタズタにする原動力が宿っている。それが、障害児を分離教育に追いやり、障害者を施設で一生暮らすことを余儀なくさせ、老化に伴い介護が必要になると施設が終の棲家だと人生を諦めさせる。だが施設は誰もが好んで行くわけではない。その閉鎖的な空気や息が詰まりそうな生活、日々の人間関係は一般社会の差別の縮図そのままであり、そんな現実を皆知らない振りをする。

私はかつて養護学校高等部で全寮制のいわゆる施設で3年間暮らした。その入寮初日、先輩が私の姿を見るなりこう言い放った。「あなたは自分の立場を知りなさい。あなたは脳性麻痺だから、動作も遅く時間も守れず、何も満足にできない。私たちとは立場が違う。だから、仲良くなろうなんておこがましい。自分は周囲の足を引っ張るだけの存在と自覚しなさい」
障害者だけを集めると、その狭 い世界の中で能力主義=少しでも健常者に近い者が上位になり、その序列は時に健常者の想像を超えて厳しいものになる。ある先輩はそんないじめに耐え切れず家に帰りたいと寮から抜け出したのだが、「脱走だ」と山狩りのあげく連れ戻された。このように施設を含む社会のあらゆる場に蔓延する障害への否定的感情~健常者中心の考え方こそが、施設というものが作られ成り立つ大きな理由であり、このポリシーは施設に一貫している。

当時民生委員だった祖父が他の委員たちと慰問に行ったら「なんと明るい」「ここの子は幸せだ」「恵まれている」と 口々に言っていたそうだ。「たまに覗く」くらいでは見えないものが一杯ある。まして施設に追いやってしまった家族は、そこで何が起きているのか、目を背けず現実を見ることができない。

そもそも施設の存在自体が、障害者を一箇所に集め死ぬまで隔離・管理することを暗に認めてしまっている。手間のかかる、厄介者は面倒を見切れないから「切り捨て・隔離」することで成り立つ私たちの「快適」な生活こそ、今回の事件の下敷きになっているのでは。「障害者にはなりたくない、障害者はいらない」が前提の社会に在って、このような事件は起こるべくして起きたことかもしれないと思う。

3・11以降、放射能の健康被害について、国や東電、学者や医師らが因果関係をはっきり認めないので、私たちは不安を払拭することができない。そんな中でチェルノブイリのドキュメンタリーなどを観て、たびたび登場する奇形児や障害児に「障害児や奇形児が生まれる」から「原発はだめ」 と思ってしまう。こうして原発反対はいつの間にか「障害児が生まれることはだめだ」にすり替わる。これは新しい命を宿した女性を「子殺し」へ駆り立てるかもしれないと危惧する。お腹の中にいるときから区別することなく、殺すのではなく、どの子もみな産み育て、誰もが共に生きて行ける社会でなければ。
心の奥に根深く宿る、人を役に「立つ」「立たない」 に分ける価値観の呪縛から解放され、新しくお母さんになる女性たちを心から祝福できる社会をめざし、みんなで一緒に考え、歩み始めたい。

正代さん、6月25日、関西電力株主総会で発言

2015-07-07

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

発言する 古井正代さん
(6月25日 関西電力株主総会にて)原発事故が起こったら、障がい者 は逃げられない!
福島の事故の時も、取り残され、餓死した障がい者たちがいるのです。
福島では、稽留流産という診断名のもとに、胎児が闇から闇へと葬り去られていると聞きます。
母親を命の選別に駆り立て
原発事故が優生思想を惹き起こしているのです。
事故は必ずあります。
障がい者は死んでもいいというような原発はいりません
もっと優しいエネルギーを、社会を!!
以下は、その場に居合わせた方の感想です。
涙が出ました。壇上の人(八木社長以下、関電役員)も顔を歪ませてました。少しは人の心を動かせたと思います。でも、すぐまた、彼らは、ロボットにもどりました。
投稿 松尾

いとしのタカッサン

2014-02-11

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

日本の障碍者運動のはじまりは東京

日本で初めてできた東京の光明養護学校の卒業生が文芸活動など通じて「しののめ」という会を作り集っていた。この集まりが1957年に結成された脳性まひ者による組織「青い芝の会」の母体だったといわれている。「脳性まひ者は他の障碍者団体に行ってもなかなか相手にされない」「将来は政治的な圧力団体を目指したい」と初代会長が当時の会報創刊号に書いているという[寺田2002年]。東京を中心とした生活要求型の青い芝の会の運動は1963年から1968年まで国立障害者リハビリテーションセンター等の施設内での処遇改善や整形外科医の治療を要求し座り込んだりしていった。

 

次に神奈川が注目され

1962年に、茨城県つくば市に住む 閑居山願成寺住職の大仏 空(和尚)は自分の寺に、在宅の脳性まひ者を集めて、共同生活の中から自己主張と生きる力を育もうと、共同体マハラバ村を開いた [横田2002年] 。 横田弘の言葉を借りれば「脳性まひ者で何が悪い!世の中に完璧な人間なんかいないのに、なぜ脳性まひ者だけが差別されるのか、おかしいじゃないか」という思想を得た脳性まひの男女たちは、やがて結婚して共同体から自立していった。「青い芝の会」神奈川県連合会は横浜市や川崎市などに移り住んだ彼らによって1969年に始まった。最初は親睦会だったが、翌年に横浜で起こった母親による障害児殺し事件への同情から起こった減刑嘆願運動に対する危機意識をきっかけに、「母よ、殺すな!」「障碍者は殺されて当たり前か?」と当事者として歴史上はじめて異論を唱え、厳正な裁判を要求した。これは「殺される立場からの告発」として注目をあび、その様子は1971年にNHK「現代の映像」で「あるCP者集団」としてとりあげられ、映画「さようならCP」も制作され1972年2月には上映運動が始まった。

 

その次に姫路のタカッサン

その次に姫路で澤田隆司さん(愛称:タカッサンと略す)が作ったグループリボンが大きな流れを引き起こした。1972年に家から出ることもなかった障碍者が在宅から外へ出ていくことをめざしてグループリボンを作った。当時は、学校を出ても就職もできず、進学もできずタカッサン自身も含め親の家で孤立していた。そういう境遇の在宅障碍者が、まず外へ出ていくことだけでも障碍者運動になるのだ!ということをタカッサンが先頭をきって始めた。これ自体が大きな冒険だった。なぜなら、タカッサンは全面介護の要る障碍者で、立派な文章も書けず、しかも、しゃべって音声で意思を伝えることはしない。文字盤を使うタカッサンが代表でグループを作ったというのが、今までと違っていた。障碍者運動とは、いちばん健全者から遠い人が楽しく生きていくということが目的で作られたはずなので、タカッサンが中心で何の不思議もなかった。これに対しては、今までの青い芝の運動の中心だった関東の人たちからは「自分のことができるものが中心でなかったら、介護者が必要になる」そうすると「健全者が運動の中に入ってくる」から、余り賛成できないと言われていた。だけど、タカッサンは、「自分たちが中心でなかったら、ほんとうの障碍者の解放はできない」といって、今に続くこの運動の基礎を作った。

 

タカッサンの一言が看板を引き継ぐ

タカッサンがそれを突き通したから、冒険心一杯で「楽しく外出している」光景の映画を自主制作することをグループリボンの日常活動にしていくことになった。やがてそれが関西テレビの午後の番組の特集に取り上げられ、そのテレビをお茶の間で見ていた、大阪や神戸の在宅の障碍者たちが、「一緒に自分たちも外へ出たい」といって、たくさんの在宅障碍者が集まっていって、グループリボンが半年でいっぺんに大きくなって姫路・神戸・大阪の連合会になった。テレビを見て来た人の中に松井義孝さんもいたが、松井さんも言葉がすごく聞きとりにくかった。健全者が無視しようと思えば、いとも簡単に無視できそうだったが、無視されても、繰り返し、繰り返し食い下がって、肉声を聞かせ「通訳」や「字幕」を生涯拒否し続けた。自主制作映画でタカッサンがゆっくりした文字盤で会話するシーンを通じて伝えたかったのも「常に親が代弁するのが当たり前」だった当時の常識への挑戦である。自分達のペースの自己主張の大切さを世に認めさせたいという意志の発露にほかならない。

グループリボンができたころ、それを聞きつけてやってきた当時の関東の青い芝の会(横塚さん、寺田さん、若林さん)から「そんなに脳性まひ者が集まっているなら、そのグループを青い芝の会にしないか? そちらの方が、人数が多いのだから、組織の名前は赤い芝でも黄色い芝でも、変えてもいいから一緒にやろう。」と言ってきた。タカッサンが「青のままでいい」と言ったので、いまに続く「青い芝の会」の看板を引き継ぐことになった。

1967年東京の施設(久留米園)入所者の学習会で生まれたテーゼ「人間の生きる権利と自由は、まさにそれ自体として尊ばれ、守られるべきであり、能力の程度等によって割引されてはならない。そして重い障碍者こそ、この人間の生きる権利の最も端的な生きた具現者である。」が5年後の1972年になって青い芝の会の運動方針に盛り込まれた[寺田2002年]という事実は、タカッサンが作ったグループリボンに始まる関西の大きな流れが当時の歴史を刻んでいたという何よりの証拠でもある。

 

究極のコミュニケーションの達人

タカッサンは、私が小学校2年で出会ったとき(当時タカッサンは中学生)から、文字盤を使ったコミュニケーションだった。しかし、その文字盤がすごくゆっくりで、なかなか伝える言葉の内容や量が限られていた。だからこそ、その言葉の足らない分たくさんの想念が、非言語的手段のコミュニケーションが総動員されて、たくさん伝わってくる。それに加えて、タカッサンには持ち前のたぐいまれな包容力、気配り、大きさといった人間力がある。その結果、相手を完璧にタカッサンのペースに巻き込んでいくのが、タカッサンstyleだ。このコミュニケーションが人世経験を重ねるごとに上手になっていった。こうして、タカッサンの熟練したコミュニケーションスキルは、二次障害の頚椎症で文字盤を指すことさえできなくなっても、さらに洗練され、卓越した「コミュニケーションの巧」の域にまで達していったように感じる。このタカッサンstyleは、今までの社会運動史上前例のない、いわば、素っ裸の「丸投げ」スタイルともいえる、何人たりとも追随を許さない独自の世界を作り上げた。[古井2010年]

 

タカッサンと松井さん

健全者のペースに全くと言っていいほど合わせようのない、音声言語をしゃべらないタカッサンと言葉が出にくい松井さんの二人には、関わった多数の健全者の意識(障碍者自身の意識も)を「理屈抜き」で変えてきたという共通点がある。法律や制度を変えれば、確かに生活や社会はある程度は変わるだろう。しかし、どんな状態の人に対しても差別せず人間の魂への畏敬の念を持ち続けられるか、人とどう接し、どう関わるのかという、人間としての姿勢や生き方は、利害得失や効率を重んじる合理性とはまた別の問題だ。共感抜きの言語表現による理路整然とした理屈だけでは、切れば血の出る生身の人間の態度や振る舞いを根底から変えることなど到底できやしない。タカッサンの横にいると、だれもがタカッサンの心象を疑似体験してしまう一瞬がある。これこそ、われわれが世界の障碍者に誇れるタカッサンstyleが作り出す、介護・被介護の非対称的性を逆手に取った、すばらしい関係だ[古井2010年]。 健全者に媚びを売らない、売りようのない立場を活用し、だからこそ生じる介護者の内発性を誘い、障碍者個々の独自性を最大限に配慮した介護をさせてしまう。健全者教育として介護者と最もいい関係を作りながら、今日まで運動の歴史を重ねてきのだろう。

 

なぜなのか?

このようなことが可能なのはなぜなのか? ペラペラしゃべる健全者とは対極のエッセンスのみの意志表出のこの二人は、共通の障碍者差別や優生思想に対する動物的な勘ともいえる第6感のようなものが鋭かったように感じる。「これはダメ」「これはおかしい!」何か想定外のことが起こると、いつも瞬時に「胡散臭さ」を嗅ぎ分けて、峻別してくれていた。さらには、タカッサンは自分たちに重要でもない内容が延々と続くと、きまって居眠りをはじめた。これを見て、そのような議論は早々に切り上げるべきだと確信できたので、もっと必要なことに時間を向けられて、本当に助かっていた。和歌山闘争の時も、砂子療育園の差別事件の時も、車椅子の教師をつくる運動のときも、川崎バス闘争のときも、兵庫県の「不幸な子供を産まない対策室」抗議の時も、優生保護法改悪阻止、養護学校義務化阻止の時も、周辺情勢やいろいろな思惑とは無縁の、タカッサンと松井さんの明快な見識が70年代の関西青い芝・全国青い芝のみんなを直接行動の決断に導いたと言っても過言ではない。選択に値する情報がないから(議論はパスして)居眠りする、こんな方法で、簡単で本質的なことをいつも気づかせてくれていた。

 

最後の叫び

そして、近年では、2008年の年末に産科医療補償制度のことで、二人の怒りが頂点に達し、さらに横田弘さんとも久々に一緒になって、厚生労働省に抗議しに行った[Furui, M. 2009]。松井義孝さんは、持病の喘息の悪化で10年近く自室を出たことがなかったにも関わらず、抗議行動の最前列を担い、帰阪後1ヶ月後に帰らぬ人となった。

タカッサンは、2013年10月27日に西宮で開催された、原発事故後に解禁された母体血検査に潜む優生思想について考える「母体の血を覗き見て」の集会に来てくれて、「私たちは優生思想と闘ってきたよね!タカッサン」との呼びかけに「ウオー」と答えてくれたのが、本当に最後の叫びになってしまった。この集会での叫びから4時間後に亡くなったのだ。最後の最後まで、壮絶な人生を生き切ったタカッサン!! 残された我々に託した想いは、いま、タカッサンに現在まで関わっていたり、過去関わったりしたたくさんの人達の魂の奥深くに宿っていて、必ずいく道をてらしてくれている。考えてみれば、すでに何人の人がタカッサンに世界観や人生を変えられてきたことだろうか。

          タカッサンは永遠不滅です!!

 

 

参考文献

寺田純一 [2002年] 「青い芝と43年」 『自立生活運動と障害者文化』(編)全国自立生活センター協議会, p196-200. 現代書館, 東京.

横田 弘 [2002年]  「やっぱり障害者が生きていることは当たり前じゃない」『自立生活運動と障害者文化』(編)全国自立生活センター協議会, p271-279. 現代書館, 東京.

古井正代 [2002年] 「電動車椅子を使いながらアメリカで生活して」『地域理学療法にこだわる』(編)日高正巳,p401-402. 文光堂,東京.

Furui, M. [2009年] Exposing the flaw of the Obstetric compensation System from the one who “should not exist” Women’s Asia 21Voces from Japan, no22(April 2009), p26-30. Asia-Japan Woman’s resource Center.

 

何重にも差別を受けた佐々木千津子さんの死を悼んで

2013-12-20

Warning: Illegal string offset 'keywords_time' in /export/sd202/www/jp/r/e/gmoserver/0/2/sd0190002/cp-research.jp/wordpress-2.8.2-ja-undernavicontrol/wp-content/plugins/internal_link_building.php_/internal_link_building.php on line 103

今年65歳で亡くなった脳性まひ者佐々木千津子さんの生涯は何重にも差別を受けた歴史そのものとも言えるかもしれません。私が広島在住だったころ、すれ違ったかもしれない千津子さんの生い立ちは「忘れてほしゅうない」というDVDで販売されています。それを見た人も、これから見る人にも、ぜひ一緒に考えてもらいたい事があります。


広島市近郊(現在は広島市)で生まれた脳性まひ者の佐々木千津子さんが生をうけたのは、広島が被爆し、お父さんが妹(叔母さん)を探しに毎日のように爆心地まで通った2年後でした。佐々木さんは昭和22年12月28日生まれでしたが、学齢期になっても小学校に行くどころか、就学猶予・免除にされて、地域や社会から隔離された環境で同世代の友達もなく育ちました。彼女が成長して、お姉さんの結婚が決まった時に、障害をもった妹がいることが知れ、障害者は遺伝すると言われ結婚が破談になったそうです。当時の広島は折り鶴の少女で有名な白血病をはじめとする急性放射線症候群や死産・奇形児の増加などの放射能被害が伝えられる被爆地でした。だから当時の「内部被曝」の事実がタブーとされたり、「五体満足」以外の子供の存在を許さない内なる優生思想が、この話から覗い知ることができるかもしれません。

佐々木さんが姉さんの破断をきっかけに、自分のことを「家族一同の厄介者」と強く感じ、「これ以上迷惑をかけられない」と自宅に居たたまれなくなった事は容易に想像できます。高度経済成長期にさしかかった当時の日本は、「家から出るには、施設に入る事しか選択枝がない」「施設に入り国の庇護を受けられるのは幸福だ」と思い込まされた差別社会でもありました。今日の国連の権利条約や合理的配慮とは全く対極のような、誰も疑うことさえ許されない当時の社会全体の排除的な空気が、彼女に施設に入所する決意をさせました。当時は施設入所の条件に、生理の世話などの「余分な介助」の必要な者は入所を許可しない規則がありました。社会と隔絶した在宅生活で、女性の身体の仕組みについて全く無知な彼女は、「生理がなくなる」手術のリスクや「子供を産めなくなる事」に何の説明もないまま、入所のための条件として、何の疾患もない生殖器への違法な不妊手術をいともたやすく強要されてしまいました。その結果、子宮に放射線を長時間当てる処置によって被曝させられたのです。

被爆地で生まれたこと、障害を持っていたこと、家族も含めた偏見と差別、介護の手間を省くこ収容施設、義務教育も受けず、自分の性について知る機会もなく、地域から隔絶した生い立ち、さらに違法な不妊手術の被爆にいたるまで、何重にも差別を受けた彼女は今年65歳の若さで、急に亡くなったのです。

不妊の為のコバルト照射の後遺症で亡くなるまで身体中あちこちに痛みを伴い、莫大な量の薬を飲まないではいられなかったといいます。このあと、彼女は自分の一生涯のテーマとして、優生思想によって差別され、違法な不妊を行政組織ぐるみで強要された事に対し、怒りと事実確認・謝罪を訴え続けてきました。亡くなる日も優生思想の学習会に行った帰り道だったそうです。どういうわけか、子どもを産みたかった彼女が亡くなったのは(搬送先の病院で病室を空けるまで待たされた場所)、それは皮肉にも分娩室だったそうです。

佐々木千津子さんの主張は、「自分の生理の始末もできない女が堂々と生きているのがおかしい」という個人に対する攻撃に対して、生理は女として生きる上で当然のことで空気を吸うのと同じくらい当たり前で、これを「余分な世話」とするような介護側の意識を変える努力は本来社会の側の責任である。 この責任を自覚せず、個人の肉体に違法な危害を加えた罪を曖昧にしたままでは、結果として社会が障害者の生存を認めていないことになる、という点です。

違法な不妊手術を許さない佐々木千津子さんの魂が訴えている叫び(忘れてほしゅうない!)の根幹には、国連の障害者権利条約に明記されている、障害は個人の問題ではなく社会の側の問題だという認識があるのです。佐々木千津子さんの命懸けの叫びに耳を傾けるなら、心身の状態に関わらず誰も社会から排除しない仕組みを実現させる覚悟をもって、過去の違法な事実をウヤムヤにしないことが求められているのです。

広島に原爆が落とされた昭和20年8月6日以降、広島で障害児や奇形児が産まれるかもしれないと言われ、広島出身だと結婚の時に差別を受けたのには二重の差別構造があります。戦前戦中と「産めよ!増やせよ!」という教育で戦争要員(兵士・銃後の守り)を確保するのが国策でした。ナチスドイツがユダヤ人を虐殺する前に障害者虐殺をしていた歴史に見られるように、戦争が起こると「生産性のない」「役たたず」な者に生きる資格などないとされていました。貧困家庭では子殺し、裕福な家庭でも「座敷牢」に閉じ込められ世間の目を忍んで一生を終わるが当たり前でした。敗戦後にもその常識は変わるどころか、原爆投下後の被爆地で障害児が生まれようものなら、「遺伝」や「血の穢れ」として、当時は更に厳しい差別があったのも当然の成り行きでした。そして70年近く経った現在、原発事故後の福島で、またもや、「結婚出来ないかもしれない」とか「普通の子どもが産めない」と一部の人達によって言われています。「結婚出来ない」のは結婚後産まれる子どもが障害児かもしれないという恐怖が脳裏に浮かんでのことではありませんか?「普通の子ども」というのは「五体満足」な赤ちゃんを意味しているのではありませんか?それなら、障害児や奇形児は生まれながらに不幸を背負っているのでしょうか?私達障害者の事を「あってはならない存在」と思う根強い優生思想をもちながら、無自覚な人達が70年近く確実に再生産されてきたのです。

だからこそ、その原点である原爆被爆地の当時をしっかり振り返ることを忘れては、今日の私たちの本当の姿は見えないのでしょう。

Copyright© 2010 脳性まひ者の生活と健康を考える会-代表古井正代のホーム-ページ All Rights Reserved.