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65歳障害者差別問題: 障害者が生きることを放棄させる人権問題です。

2018-01-02

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介護保険は健常者の「あんな姿になったらおしまい」という優生思想から創られた保険制度で、生きるための人権とは発端が違います。
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[介護保険は障害者が障害者のままで生きることを放棄させる]人権問題です。

11月17日大阪市役所に以下の要望書を持って何が障害者の人権問題なのかを説明、抗議して来ました。
障害者福祉サービスは、個人の障害者が生活する上でそれに必要な物や介護を提供することをまだまだ不十分ながら、権利として勝ち取って来ました。

しかし介護保険は、そもそも当事者の声を無視しており、健全者が障害を持つこと、いわば障害者の初心者であるということを認めようとしていません
あくまでも健全者のようになることが目的で、ありのままの障害者の存在を支援するという視座がまったくありません。
「障害者として生きる」ことが含まれていないのです。
つまりそんな介護保険を強要することは「障害者権利条約」に違反することになります。
合理的配慮のない介護保険は、障害者差別解消法にも反します。

11月27日「介護保険は強制ではないので、無視してください」と大阪市福祉局高齢者施策部 介護保険課担当係長三上一郎氏から私に連絡が入りました。
大阪市福祉局は私の誕生日が12月11日なので、12月9日に介護保険へと切り替えさせるために障害福祉サービスを止めるべく画策していたのです。
それで、私は12月5日区役所に出向き、障害福祉サービスを継続させるための手続きを済ませました。
そして12月12日、ようやく障害福祉サービス受給者証が届きました。

障害を持つ自分に誇りを持って地域で生活し続けるため、65歳になっても介護保険の申請を拒否し、従来からの障害者総合支援法の活用を呼びかけます。

多くの仲間に拡散してください。
古井正代-

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障害を持つ自分に誇りを持って地域で生活し続けるため、私は65歳になっても介護保険の申請を拒否し従来からの障害者総合支援法のままでいくことを求めます。
2017年11月17日
大阪市長  吉村 洋文  殿
脳性まひ者の生活と健康を考える会
大阪市西成区岸里3-7-1-904 在住
古井 正代戦後になって賃金でも社会保険制度でも生活が支えられない場合には,国民の権利として公的扶助制度を利用できる社会保障制度体系が日本で初めて整えられ、国民の生存権を保障する体制が整いつつありました。
しかし、社会的入院や増え続ける高齢者医療費や寝たきり老人問題への解決策として2000年から介護保険制度が施行されました。残念なことに、それまで障害者支援で培われた当事者の声を反映しようとするポリシーが全く引き継がれないまま、急を要する国策として作られたのです。当時こんなことがありました。身体障害者の制度で体にあった車いすをオーダーメード出来ていた40歳以上の脳卒中片麻痺者の人の低床型の車いすについてです。2000年介護保険に切り替わったとたん、自分の片手片足でこげないようなリース品にしろと言われたのです。考えてもみてください、3月31日まで国民の権利として保障されていた移動の自由を、4月1日から年齢を理由にいとも簡単に「共助制度」の責任だとされたのです。それまで身体障害福祉でやってきたことは税金の無駄使いだったのでしょうか?「機能低下を来させることが介護保険の目的なのか」と厳重に抗議すると、今度は何の謝罪もなしに低床型オーダー車いすを業者に買わせて「これでいいだろう」とリース品使用を押し付けたのです。
このように介護保険は初めから、一定以上の年齢の障害者の権利や人間としての誇りなど眼中になく、我慢させることから始まったのです。障害者に対し年齢を理由に、障害の本質である個別性とは真逆の画一性を強引に押しつけ、権利を放棄させようとする歴史が今も続いていると言わざるをえません。
介護保険によって普遍的な保障を理念とした措置制度から契約制度へ移行し,応能負担から応益負担への転換が老人福祉に導入されました。定率の利用者負担が採用されたことで,低所得者の利用を絶対的・相対的に抑制しているともいわれ、本来の利用ニーズにプレッシャーをかけ続けてきたのです。
現実に脳性まひ者の私自身には、2003年から頭部外傷と脊髄腫瘍で動けなくなった母を我が家で引き取って、2010年まで同居して看取った経験があります。最後の2年、母は要介護5でした。にもかかわらず「横だしサービス」の全額と利用料自己負担1割で月額10万円以上支払い、それだけではケアが足らず、この重度障害者の私が母を毎日3時間くらい「介助」してなければ生活が成り立たちませんでした。これを「互助」のあるべき姿とでも言うのでしょうか。
なぜ老いた母が重度障害者の私を頼ったのか、そんな素朴な疑問もわきませんか?
その答えは、障害を持つことが悪いことだという優生思想が、あまりに世間に蔓延していて、道具や他人の力を利用しながらでも誇り高く生きられる生活モデルが、「障害者自立生活」以外に見当たらなかったからではないでしょうか。
日本の脳性まひ者は障害者運動のパイオニアで、日本中に自立生活センターが普及する1980年代よりも15年以上前から、地域社会で自律的に生活してきた歴史があります。制度のない時代から、地域に生きる脳性まひ者は、自分で介護者を見つけ、人間関係を築きながら介護を教え、人間のあり方を世間に問い、自分たちの介護体制を自分たちのイニシアティブで作ろうとしてきました。
共生社会を目指すことが、どんなにいばらの道であったのか、私たちは身をもって体験し、骨身を削りながら、世に問うてきました。
大阪市営地下鉄の、すべての駅に全国に先駆けてエレベーターがついたのも、ガイドヘルパーや支援費制度など、まがりなりにも、現在まで障害者支援やバリアフリーが整ってきたのも、私たち日本の脳性まひ者をはじめとする重度障害者の長年のいばらの道の副産物といえるのです。
たとえば、身体障害者の等級制度にしても、傷痍軍人での四肢の欠損がモデルで、画一的な階層性が戦後の当初にはあったのです。しかし、手足があっても上手く動かない、だから社会的不利は手足のない人よりはるかに大きい、そんな全身性運動障害の当事者が脳性まひ者なのです。その当事者が直接、生の声で粘り強く国に改善を求め交渉を重ねたからこそ、その後、さまざまな中枢性運動障害に対応できるような障害表記や等級となった経緯があるのです。
このように障害者制度は、当事者の身体をはった、骨身を削った取り組みや、生の声が羅針盤になって様々に形作られたり、変わったりしてきたのです。私自身も20代から障害者の人権を主張し、地域社会のユニークなメンバーとして、誇り高く生きてきました。これからも脳性まひ者、障害者として、引き続き地域に根を張って生活していきたいと思っています。
介護保険制度は障害者の特性を軽視するだけでなく、マジョリティ重視の市場主義を導入し、障害支援や介護を商業化させたのです。民間企業の参加しやすさに気を配るあまり、利用者や当事者の主体性や社会参加への視点は、障害者支援制度に比べはるかに薄いのが介護保険です。障害者から見ると、介護保険は専門家と行政主導で推進・運営されてきたように思えるのです。介護予防にしても、つまりは利用者を減らす事が目的で、障害者排除の優生思想にいつでも接近する危険をはらんでいると感じます。
介護保険制度は障害者支援とは目的・出所・成り立ちから違います。それがパターナリズムだという証拠は、介護保険で「自立」と言えば、何もかもを独りで介助なしにすることをいい、障害者の「自立生活」の概念との整合性など一切考慮されていないことで明らかです。このような健常者モデルの身辺自立一辺倒の発想では、障害者権利条約における合理的配慮の何が「合理的」なのかについて、私達障害者とは真逆の解釈をしているに違いありません。
私は今年で65歳を迎えます。障害者が65歳になれば従来受けてきた障害者総合支援法のサービスから、高齢者専用の介護保険のサービスに切り替わる(介護保険優先の原則)と言われても、私は幼いときから脳性まひの障害とともに生きてきましたし、これからも脳性まひ者として生きていきます。繰り返しますが、産まれてこのかた一度たりとも「健常者」であったこともないし、今後の私の人生でも障害がなくなる見込みなどありません。それなのに65歳になると、なぜ普遍的保障の障害者総合支援法から健常者モデルの自立観に立脚した共助の介護保険になってしまうのか、全く納得ができません。
負担の公平性ということを建前にするなら、なぜ差別解消法が必要だったのかと問いたいと思います。そもそもわれわれ全身性障害者が合理的配慮をもって健常者と公平に扱われてきたことがないからこそ、それを解消する必要があったのではなかったのではないでしょうか。私の脳性まひ者としての誇り65年の道程と、それに続く共生社会への未来を黙殺しないでください。
私が介護保険のサービスを受けることを仮定するだけで、当然ながら様々な矛盾・問題が噴出します。以下に、想定される問題・矛盾を列挙しますので、これらに対する大阪市の見解・見識を私にもわかるように説明してください。
①  障害者が65歳になると、今まで受けてきたサービスが継続できなくなる恐れがあります。障害者総合支援法の補装具給付で自分に見合った電動車いすが支給されたものの修理やメンテナンスは、65歳を過ぎるとどうなるのか不安です。
②  2015年からは介護保険の自己負担額が2割になって介護保険サービスに変わると、今までのサービス料金体系が変わり負担が増えることを危惧します。もしも母が入院・入所していたらコストはもっとかかっていたでしょう。母には元気なとき働いて余分に掛けた年金と定年まで蓄えた貯金があったので何とかしのげましたが、若いときから収入が障害基礎年金しかない私には、そのような自己負担もできないでしょう。いくら要介護5になっても、母よりもはるかに薄いサービスしか購えず、1日のかなりの時間を介護なしに放置されるでしょう。生まれながらの全身性障害者に自助や応益負担を求めるのは、こういう意味なのです。
③障害者総合支援法と介護保険の制度上の違いにより、サービス利用の区分・格差の不合理な問題が起きて、障害者本人や家族たちを混乱させ、サービスの利用における内容制限や新たな負担問題などをつくり出しています。
③  障害者総合支援法第7条(介護保険優先原則)の規定によって、障害福祉サービスであっても、介護保険に「相当」「類似」するサービスは介護保険での提供とされ、その結果住民税非課税世帯でもサービスは利用料を徴収されるのでしょう。
④  私は現在、障害者総合支援法の「重度訪問介護」等のサービスを受けていますが、介護保険には重度訪問介護のサービスはありません。重度訪問介護のサービスが打ち切られる可能性があります。私の誕生日が過ぎても、特別措置で重度訪問介護が認められるかもしれませんが、私の障害の変化によって、重度訪問介護の介助量が増えていくことも考えられます。そのような場合、介護保険適用では支給量のアップを認めるのですか?
⑥障害者基本法の第1条には《障害者の自立及び社会参加の支援のための施策の推進》が唱われています。そしてまた、この障害者基本法の基本理念に則った障害者総合支援法の第1条では《障害者及び障害児が基本的人権を享有する個人としての尊厳にふさわしい日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付、地域生活支援事業その他の支援を総合的に行い》と規定されていますが、これに対し介護保険法第1条では《加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他医療を要する者について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要
な保健医療サービス及び福祉サービスに係わる給付を行うため》と規定されています。このように障害者総合支援法と介護保険では明らかな違いが見られます。
介護保険は個別的な社会参加という概念がまったく含まれていません。これまで私は、障害者問題・社会問題に取り組みながら多くの人々と関係を築きながら、街の中に出かけたりしてきました。にもかかわらず、65歳を過ぎると、障害者支援にあった外出に対する支援が介護保険になく、事実上社会参加が制限されてしまうのです。これでは、介護の必要な者は、ますます介護者を見つけるのも困難になり、結果的に更に社会から孤立することになりませんか?
⑧「重度訪問介護」では都道府県知事から必要な知識及び技術を有すると認められる旨の証明書の交付を受けた者及び重度訪問介護従事者養成研修を受けた者もヘルパー資格が認められています。私の友人の中には自分たちで努力して開設した事業所でヘルパーを派遣している人もいますが、そこのヘルパーの多くは、友人たちと長い時間を共有して脳性まひの介助の仕方を学んでいます。しかし、介護保険関係の事業所に私たちの特殊性を理解し、当事者のイニシアティブを尊重する介助を行えるヘルパーが育つ余裕があるでしょうか?介護保険になった途端に、障害特性を「我儘だ」などと誤解されながら、また長い時間とエネルギーを費やし教育に取り組まなくてはなりません。障害が重くなればなるほど、障害の特殊性を理解し、
言葉にならない思いを傾聴する態度が重要となってくるので事態はさらに深刻です。
何が何でも介護保険に無理やり一体化するというのは、全身性障害者の視点からすれば、きわめて重大な人権侵害・存在否定そのものなのです。
以上、私の65年培ってきた障害者としての生き様と、介護保険に対する障害者の立場からの主張を述べてきました。これらのことから、私は全身性障害者として地域での私らしい生活を維持していくために、65歳になっても介護保険を拒否し、障害者総合支援法のサービスの適用を要望します。
現在、全国の65歳を過ぎた全身性障害者の仲間たちと各地方自治体との間で多くの摩擦が生じ裁判沙汰になっている地方自治体もあるようです。社会保険には【短期受給者証】があって1年にならなくとも何か月かごとに受給者証の交付を行なうことができ、東京や神奈川では1か月から半年間の短期証として65歳以上でも障害者総合支援法の受給者証の交付を継続している例があります。介護保険と障害者総合支援法との関係で、ある人が厚生労働省に問い合わせたところ、「65才になれば原則介護保険が優先されます。しかしこれはあくまで優先で、全身性障害者の場合等は必要に応じて100%総合支援法を適用することは可能です。個別事例については自治体の考え次第です」と述べています。
私の求めを黙殺せず、共生社会に向かって「大阪を前に進める」そんな心の通った市長と大阪市であるようにと、心より願っています。
 

相模原事件の報道に思う

2016-08-21

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2016年7月、障害者施設に元職員が侵入し「障害者は生きていても仕方がない」」「安楽死させた方がいい」と大量殺人事件が起きた。こういう事件のたびに、マスコミは犯人探しと犯人の異常性をクローズ アップした報道に躍起になる。そしてこの報道で、人々は自分たちの生活とはかけ離れた残忍な事件なのだと錯覚する。だが「障害者殺し」は想像を絶する別世界の問題でも、悪意に満ちた人だけが起こす出来事でもない。

ごく普通に多くの人々が抱く障害に対する否定的な感情やそれに関連する価値観~例えば子供ができたら「男女どちらでも健康が何より」だとか、歳を取ると「いつまでも若々しく」「迷惑にならないように」とか、私たち障害者を見れば「あんな姿にはなりたくない」とか~誰もが「常識」と信じて疑わない「ものの見方」の根底に、生命の尊厳と人間の誇りをズタズタにする原動力が宿っている。それが、障害児を分離教育に追いやり、障害者を施設で一生暮らすことを余儀なくさせ、老化に伴い介護が必要になると施設が終の棲家だと人生を諦めさせる。だが施設は誰もが好んで行くわけではない。その閉鎖的な空気や息が詰まりそうな生活、日々の人間関係は一般社会の差別の縮図そのままであり、そんな現実を皆知らない振りをする。

私はかつて養護学校高等部で全寮制のいわゆる施設で3年間暮らした。その入寮初日、先輩が私の姿を見るなりこう言い放った。「あなたは自分の立場を知りなさい。あなたは脳性麻痺だから、動作も遅く時間も守れず、何も満足にできない。私たちとは立場が違う。だから、仲良くなろうなんておこがましい。自分は周囲の足を引っ張るだけの存在と自覚しなさい」
障害者だけを集めると、その狭 い世界の中で能力主義=少しでも健常者に近い者が上位になり、その序列は時に健常者の想像を超えて厳しいものになる。ある先輩はそんないじめに耐え切れず家に帰りたいと寮から抜け出したのだが、「脱走だ」と山狩りのあげく連れ戻された。このように施設を含む社会のあらゆる場に蔓延する障害への否定的感情~健常者中心の考え方こそが、施設というものが作られ成り立つ大きな理由であり、このポリシーは施設に一貫している。

当時民生委員だった祖父が他の委員たちと慰問に行ったら「なんと明るい」「ここの子は幸せだ」「恵まれている」と 口々に言っていたそうだ。「たまに覗く」くらいでは見えないものが一杯ある。まして施設に追いやってしまった家族は、そこで何が起きているのか、目を背けず現実を見ることができない。

そもそも施設の存在自体が、障害者を一箇所に集め死ぬまで隔離・管理することを暗に認めてしまっている。手間のかかる、厄介者は面倒を見切れないから「切り捨て・隔離」することで成り立つ私たちの「快適」な生活こそ、今回の事件の下敷きになっているのでは。「障害者にはなりたくない、障害者はいらない」が前提の社会に在って、このような事件は起こるべくして起きたことかもしれないと思う。

3・11以降、放射能の健康被害について、国や東電、学者や医師らが因果関係をはっきり認めないので、私たちは不安を払拭することができない。そんな中でチェルノブイリのドキュメンタリーなどを観て、たびたび登場する奇形児や障害児に「障害児や奇形児が生まれる」から「原発はだめ」 と思ってしまう。こうして原発反対はいつの間にか「障害児が生まれることはだめだ」にすり替わる。これは新しい命を宿した女性を「子殺し」へ駆り立てるかもしれないと危惧する。お腹の中にいるときから区別することなく、殺すのではなく、どの子もみな産み育て、誰もが共に生きて行ける社会でなければ。
心の奥に根深く宿る、人を役に「立つ」「立たない」 に分ける価値観の呪縛から解放され、新しくお母さんになる女性たちを心から祝福できる社会をめざし、みんなで一緒に考え、歩み始めたい。

真宗大谷派2014年宗議会を傍聴して

2014-06-27

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人と人とのつながり

2014年5月29日の真宗大谷派宗議会を傍聴し、冒頭の里雄康意 宗務総長さんのスピーチで「人と人とのつながりの大切さ」が強調されているのを聞いて心から共鳴しました。というのも、私たち障害者は社会における「人と人とのつながり」なしには生きられない、まさに「つながり」の具現者なのですから。朝おきてから夜寝てからも、常に誰かの介助なしには生命の維持さえあやうい存在、他人の関与を前提に自分の行動を企図するしかないのが、わたしたち障害者なのです。一人の人を例にとってお話します。去年の暮れになくなった澤田隆司さんという方は、幼い時にかかった日本脳炎の後遺症で、喋っても「唸り声」にしか聞こえず誰にも全く解ってもらえず、手足を動かすのも自分ではほとんど制御が困難な状態になりました。それからの、彼の一生は、まさに「人と関わること」によって「生きる」ということが成立する状態でした。食べることから、排泄まで、一部始終が他者との関わりによってしか成立しない生きかたは想像できるでしょうか?例えば意志表示をするにしても、介護者が文字盤を「あ から な までにありますか?」と尋ねても、四肢のどこかの部位ではっきりとした動きを示すこともなく、寄り添う気持ちのない人にはわからなくても、意志を確かめたいと願う介護者には全身の醸し出す表情で正否が読み取れる。そして「違いますね、では は から わ までですか?」「は行ですか? ま行ですか? や行ですか?」「や、ゆ、よ・・・よですね?」と尋ねながら、一文字づつ積み重ねて単語をつくり、さらに文にしてゆくという時間のかかる過程で意志を伝える想像を絶する日常です。彼はそれを「身の不幸」でもなく「あってはならない状態」でもなく、「楽しんで生きる」ことで自分に課された一生涯の仕事として引き受けたのです。彼は成人してからの約40年間、自分の意志で親元を離れ、たったひとり、たくさんの人を巻き込みながら暮らしてきました。自分の介護者には、なるべく経験のない一般の人をみつけ、特に固定概念がない頭の柔軟な若い学生時代からの関わりを大切にし、人と人とのふれあいから人が変わると信じ、みずから功利的な世の中を変えることに「命」をかけてきました。そこには外見ばかり重んじる小市民的な日常からは、とうてい垣間見ることのできない深い世界が広がります。たとえば食事をするにしても、口を開ければよだれは出るし、食事中でもよく咳こむので、よく食べ物をつばと一緒に口から飛び散らせたりしていました。傍から見ると汚らしく、ひどく咳き込んだ時などは「ここにいて大丈夫か?」と他人には思われかねない状態が彼の日常でした。彼は、台風の日も、雪の日も、あえて毎日家から外へ出て買い物に行き、電車に乗り、美味しいうどんが食べたいと思えば、四国まででも出かけました。介護者のみにかかわらず、行きつけの喫茶店や食堂、駅員や全ての人に「いま、ここにいる」ということで自分の存在をアピールし続けました。このようにして「生きる」ということの本質を世に説きつづけた人生を生き抜いて、享年68歳で昨年亡くなりました。彼が亡くなった時には、何十年ものあいだに彼に介護者として関わった50代から10代までの広い世代におよぶ歴代の「澤田チャイルド」たちが、彼の遺骨を自分たちで持っておきたいと、火葬場では最期の一片まですべて刷毛でかき集めて、大きな壷に入れ持ち帰りました。世間の風や視線を真っ向から受けながら、あえて素っ裸の自分を晒して生きる姿をつきつけられると、介護者は横に居るだけで(むしろ当事者でないからこそ)多くのことを感じ、やがて個々の人生観や価値観を内側から変える力になるという澤田さんの確信は間違いなかったようです。総長さんが言われていた「人と人とのつながり」という言葉を聞いて澤田さんの生き様があざやかによみがえりました。

科学は人を幸せにするのか?

宗務総長さんのスピーチの中で、極めて深刻な指摘がありました。それは「科学の発達を危惧する」と言われていた言葉です。科学は人の幸せに貢献すると言いながら、私たち障害者の生存が今まさに風前の灯にさらされています。新しい科学技術の成果と言われる母体血検査の開始です。母親のお腹の中にいるときから障害児を選別できるようにしておいて、産まれることを「予防」する、すなわち殺してしまう仕組みが、個人の選択による「科学」の名の下に進められています。憲法9条を変えようとする動きの中、優生思想や人間に優劣をつける価値観の強調がますます加速しているように感じます。それが原発事故後の放射能汚染でますます現実味を帯びてきました。放射能汚染の不安のもとで出産を迎えるお母さんは、命の選別を迫る母胎血検査を受けずにいられるのでしょうか。私には母親達が無意識の優性思想により苦悩し「子殺し」を選ぶ未来が頭に浮んでしまいます。現代社会では科学は中立ではありえません。命を「生きるに値する命」と「そうでない命」に分けることへの人々の倫理的抵抗感を「科学」の普及が押し下げていくのです。その結果「人と人とのつながり」の具現者たる障害者を生まれる前に殺そうとしているのです。これこそが宗務総長さんがスピーチで言われた「科学の発達を危惧する」最たる例だと私には感じられてしまうのです。仏様の教えでは、すべての命を大切にと言われていると思います。

いとしのタカッサン

2014-02-11

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日本の障碍者運動のはじまりは東京

日本で初めてできた東京の光明養護学校の卒業生が文芸活動など通じて「しののめ」という会を作り集っていた。この集まりが1957年に結成された脳性まひ者による組織「青い芝の会」の母体だったといわれている。「脳性まひ者は他の障碍者団体に行ってもなかなか相手にされない」「将来は政治的な圧力団体を目指したい」と初代会長が当時の会報創刊号に書いているという[寺田2002年]。東京を中心とした生活要求型の青い芝の会の運動は1963年から1968年まで国立障害者リハビリテーションセンター等の施設内での処遇改善や整形外科医の治療を要求し座り込んだりしていった。

 

次に神奈川が注目され

1962年に、茨城県つくば市に住む 閑居山願成寺住職の大仏 空(和尚)は自分の寺に、在宅の脳性まひ者を集めて、共同生活の中から自己主張と生きる力を育もうと、共同体マハラバ村を開いた [横田2002年] 。 横田弘の言葉を借りれば「脳性まひ者で何が悪い!世の中に完璧な人間なんかいないのに、なぜ脳性まひ者だけが差別されるのか、おかしいじゃないか」という思想を得た脳性まひの男女たちは、やがて結婚して共同体から自立していった。「青い芝の会」神奈川県連合会は横浜市や川崎市などに移り住んだ彼らによって1969年に始まった。最初は親睦会だったが、翌年に横浜で起こった母親による障害児殺し事件への同情から起こった減刑嘆願運動に対する危機意識をきっかけに、「母よ、殺すな!」「障碍者は殺されて当たり前か?」と当事者として歴史上はじめて異論を唱え、厳正な裁判を要求した。これは「殺される立場からの告発」として注目をあび、その様子は1971年にNHK「現代の映像」で「あるCP者集団」としてとりあげられ、映画「さようならCP」も制作され1972年2月には上映運動が始まった。

 

その次に姫路のタカッサン

その次に姫路で澤田隆司さん(愛称:タカッサンと略す)が作ったグループリボンが大きな流れを引き起こした。1972年に家から出ることもなかった障碍者が在宅から外へ出ていくことをめざしてグループリボンを作った。当時は、学校を出ても就職もできず、進学もできずタカッサン自身も含め親の家で孤立していた。そういう境遇の在宅障碍者が、まず外へ出ていくことだけでも障碍者運動になるのだ!ということをタカッサンが先頭をきって始めた。これ自体が大きな冒険だった。なぜなら、タカッサンは全面介護の要る障碍者で、立派な文章も書けず、しかも、しゃべって音声で意思を伝えることはしない。文字盤を使うタカッサンが代表でグループを作ったというのが、今までと違っていた。障碍者運動とは、いちばん健全者から遠い人が楽しく生きていくということが目的で作られたはずなので、タカッサンが中心で何の不思議もなかった。これに対しては、今までの青い芝の運動の中心だった関東の人たちからは「自分のことができるものが中心でなかったら、介護者が必要になる」そうすると「健全者が運動の中に入ってくる」から、余り賛成できないと言われていた。だけど、タカッサンは、「自分たちが中心でなかったら、ほんとうの障碍者の解放はできない」といって、今に続くこの運動の基礎を作った。

 

タカッサンの一言が看板を引き継ぐ

タカッサンがそれを突き通したから、冒険心一杯で「楽しく外出している」光景の映画を自主制作することをグループリボンの日常活動にしていくことになった。やがてそれが関西テレビの午後の番組の特集に取り上げられ、そのテレビをお茶の間で見ていた、大阪や神戸の在宅の障碍者たちが、「一緒に自分たちも外へ出たい」といって、たくさんの在宅障碍者が集まっていって、グループリボンが半年でいっぺんに大きくなって姫路・神戸・大阪の連合会になった。テレビを見て来た人の中に松井義孝さんもいたが、松井さんも言葉がすごく聞きとりにくかった。健全者が無視しようと思えば、いとも簡単に無視できそうだったが、無視されても、繰り返し、繰り返し食い下がって、肉声を聞かせ「通訳」や「字幕」を生涯拒否し続けた。自主制作映画でタカッサンがゆっくりした文字盤で会話するシーンを通じて伝えたかったのも「常に親が代弁するのが当たり前」だった当時の常識への挑戦である。自分達のペースの自己主張の大切さを世に認めさせたいという意志の発露にほかならない。

グループリボンができたころ、それを聞きつけてやってきた当時の関東の青い芝の会(横塚さん、寺田さん、若林さん)から「そんなに脳性まひ者が集まっているなら、そのグループを青い芝の会にしないか? そちらの方が、人数が多いのだから、組織の名前は赤い芝でも黄色い芝でも、変えてもいいから一緒にやろう。」と言ってきた。タカッサンが「青のままでいい」と言ったので、いまに続く「青い芝の会」の看板を引き継ぐことになった。

1967年東京の施設(久留米園)入所者の学習会で生まれたテーゼ「人間の生きる権利と自由は、まさにそれ自体として尊ばれ、守られるべきであり、能力の程度等によって割引されてはならない。そして重い障碍者こそ、この人間の生きる権利の最も端的な生きた具現者である。」が5年後の1972年になって青い芝の会の運動方針に盛り込まれた[寺田2002年]という事実は、タカッサンが作ったグループリボンに始まる関西の大きな流れが当時の歴史を刻んでいたという何よりの証拠でもある。

 

究極のコミュニケーションの達人

タカッサンは、私が小学校2年で出会ったとき(当時タカッサンは中学生)から、文字盤を使ったコミュニケーションだった。しかし、その文字盤がすごくゆっくりで、なかなか伝える言葉の内容や量が限られていた。だからこそ、その言葉の足らない分たくさんの想念が、非言語的手段のコミュニケーションが総動員されて、たくさん伝わってくる。それに加えて、タカッサンには持ち前のたぐいまれな包容力、気配り、大きさといった人間力がある。その結果、相手を完璧にタカッサンのペースに巻き込んでいくのが、タカッサンstyleだ。このコミュニケーションが人世経験を重ねるごとに上手になっていった。こうして、タカッサンの熟練したコミュニケーションスキルは、二次障害の頚椎症で文字盤を指すことさえできなくなっても、さらに洗練され、卓越した「コミュニケーションの巧」の域にまで達していったように感じる。このタカッサンstyleは、今までの社会運動史上前例のない、いわば、素っ裸の「丸投げ」スタイルともいえる、何人たりとも追随を許さない独自の世界を作り上げた。[古井2010年]

 

タカッサンと松井さん

健全者のペースに全くと言っていいほど合わせようのない、音声言語をしゃべらないタカッサンと言葉が出にくい松井さんの二人には、関わった多数の健全者の意識(障碍者自身の意識も)を「理屈抜き」で変えてきたという共通点がある。法律や制度を変えれば、確かに生活や社会はある程度は変わるだろう。しかし、どんな状態の人に対しても差別せず人間の魂への畏敬の念を持ち続けられるか、人とどう接し、どう関わるのかという、人間としての姿勢や生き方は、利害得失や効率を重んじる合理性とはまた別の問題だ。共感抜きの言語表現による理路整然とした理屈だけでは、切れば血の出る生身の人間の態度や振る舞いを根底から変えることなど到底できやしない。タカッサンの横にいると、だれもがタカッサンの心象を疑似体験してしまう一瞬がある。これこそ、われわれが世界の障碍者に誇れるタカッサンstyleが作り出す、介護・被介護の非対称的性を逆手に取った、すばらしい関係だ[古井2010年]。 健全者に媚びを売らない、売りようのない立場を活用し、だからこそ生じる介護者の内発性を誘い、障碍者個々の独自性を最大限に配慮した介護をさせてしまう。健全者教育として介護者と最もいい関係を作りながら、今日まで運動の歴史を重ねてきのだろう。

 

なぜなのか?

このようなことが可能なのはなぜなのか? ペラペラしゃべる健全者とは対極のエッセンスのみの意志表出のこの二人は、共通の障碍者差別や優生思想に対する動物的な勘ともいえる第6感のようなものが鋭かったように感じる。「これはダメ」「これはおかしい!」何か想定外のことが起こると、いつも瞬時に「胡散臭さ」を嗅ぎ分けて、峻別してくれていた。さらには、タカッサンは自分たちに重要でもない内容が延々と続くと、きまって居眠りをはじめた。これを見て、そのような議論は早々に切り上げるべきだと確信できたので、もっと必要なことに時間を向けられて、本当に助かっていた。和歌山闘争の時も、砂子療育園の差別事件の時も、車椅子の教師をつくる運動のときも、川崎バス闘争のときも、兵庫県の「不幸な子供を産まない対策室」抗議の時も、優生保護法改悪阻止、養護学校義務化阻止の時も、周辺情勢やいろいろな思惑とは無縁の、タカッサンと松井さんの明快な見識が70年代の関西青い芝・全国青い芝のみんなを直接行動の決断に導いたと言っても過言ではない。選択に値する情報がないから(議論はパスして)居眠りする、こんな方法で、簡単で本質的なことをいつも気づかせてくれていた。

 

最後の叫び

そして、近年では、2008年の年末に産科医療補償制度のことで、二人の怒りが頂点に達し、さらに横田弘さんとも久々に一緒になって、厚生労働省に抗議しに行った[Furui, M. 2009]。松井義孝さんは、持病の喘息の悪化で10年近く自室を出たことがなかったにも関わらず、抗議行動の最前列を担い、帰阪後1ヶ月後に帰らぬ人となった。

タカッサンは、2013年10月27日に西宮で開催された、原発事故後に解禁された母体血検査に潜む優生思想について考える「母体の血を覗き見て」の集会に来てくれて、「私たちは優生思想と闘ってきたよね!タカッサン」との呼びかけに「ウオー」と答えてくれたのが、本当に最後の叫びになってしまった。この集会での叫びから4時間後に亡くなったのだ。最後の最後まで、壮絶な人生を生き切ったタカッサン!! 残された我々に託した想いは、いま、タカッサンに現在まで関わっていたり、過去関わったりしたたくさんの人達の魂の奥深くに宿っていて、必ずいく道をてらしてくれている。考えてみれば、すでに何人の人がタカッサンに世界観や人生を変えられてきたことだろうか。

          タカッサンは永遠不滅です!!

 

 

参考文献

寺田純一 [2002年] 「青い芝と43年」 『自立生活運動と障害者文化』(編)全国自立生活センター協議会, p196-200. 現代書館, 東京.

横田 弘 [2002年]  「やっぱり障害者が生きていることは当たり前じゃない」『自立生活運動と障害者文化』(編)全国自立生活センター協議会, p271-279. 現代書館, 東京.

古井正代 [2002年] 「電動車椅子を使いながらアメリカで生活して」『地域理学療法にこだわる』(編)日高正巳,p401-402. 文光堂,東京.

Furui, M. [2009年] Exposing the flaw of the Obstetric compensation System from the one who “should not exist” Women’s Asia 21Voces from Japan, no22(April 2009), p26-30. Asia-Japan Woman’s resource Center.

 

「福島では地元産の食品を食べていないのが救い」について

2013-01-15

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広瀬 隆 様

3.11以降「原発いらない福島の女たち」と出会い、IAEAが福島に来ると聞き、いてもたってもいられず郡山に抗議行動に行って、広瀬さんの話を聞きました。今まで、こんなにまとまって放射能と原爆・原発について知る機会がなく、大変勉強になってDVDも予約しました。私たち、日本の脳性まひ者は高度経済成長時代「本来あってはならないてい存在」として、優性保護法によって葬られたようとし、2010年には「産科医療保障制度」で「3000万円の社会負債」と名指しされた障害当事者です。

 

2011年4月以降、被災地障害者支援センターの活動を通じて郡山市・南相馬市・飯舘村などを訪れました。郡山や福島県に数日~数週間繰り返し滞在している間、国や県が「安全盲信」を人々に強要し続け、その狭間でさまよっている人達が大多数である現実を目の当たりに見てきました。それを見抜けたのは、原爆が原発と姿を変え権勢を振るい始めた高度経済成長時代に、「本来あってはならない存在」として親や地域社会から抹殺されようとしたり、大規模施設に隔離され治療の実験台にされたりしてきた、当事者としての経験と重ね合わせる事ができたからかもしれません。「障害者のために」建設された大規模施のように、「復興支援」の呪縛で汚染地帯から逃れられないように閉じ込められた福島県の人たちは、格好の人体実験台とされつつある、放射能汚染で障害児が産まれるかもしれないと堕胎が増えるのを止めたい、そういう立場から見過ごせないと思いました。これらは障害者を殺す優生思想の結果であり、福島の女の人だけに責任を負わせる社会のあり方をこそ問わなければなりません。だから「原発いらない福島の女たち」とタッグを組んで、経済産業省前でも抗議行動に参加してきました。

 

「テレビと新聞が伝えない太郎ホントの話 vol.2 後編」の中盤で、気になる論述がありました。それは「福島では地元産の食品を食べていないのが救い」という件です。たしかに、ハイロアクション福島原発40年実行委員会の人たちや心ある「女たち」の仲間たちは食品の産地を確かめ吟味して暮らしています。しかし、福島の在宅障害者は、国や県が押しつける「安全盲信」に囚われた家族・周囲の手によって、地元産・自家製の作物を口にしてしまっている事実、自分で選択できない現実に、私は心を痛めています。彼らは「親や家族がつくる食べ物を嫌だとは言えない」というのです。社会にはそういう立場でしか生きることが許されない人間がいるのです。



添付写真のように、地元スーパーや農作物直売所では堂々と「福島産」を掲げ、それが日々完売していたようにも見えました。福島県の人が放射能汚染作物を全国にばらまくだけで、自分たちが全く口にしていないのが現実だとは思えないのです。むしろ、「食べなければならない圧力」にさらされ続けている、と強く感じるのですが・・・・。

放射能事故と優性思想については、昨年の地中海小児脳神経学会で招待報告をし、ハワイで開かれた障害学環太平洋会議でも被災地障害者支援センターの活動の一環としてワークショップを開催し、報告してきています。下記のHPをご覧頂ければ幸いです。(http://cp-research.jp/?lang=en

また、毎週金曜日、関西電力前の抗議行動にも参加しているので、そこで知り合った人たちにもこのDVDのことを広げています。折角の勉強になるDVDなで、現実の不安が不問にされる誤解がないように疑問に感じたことを記しました。

 

脳性麻痺者の生活と健康を考える会 古井正代

(なお、この手紙の内容は上記HPにも公開させていただきます)


7月29日 国会前20万人デモに参加「原発いらない福島の女たち」とともに

2012-08-01

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7月29日

7月29日 国会前20万人デモに参加し、「女が変える政治もくらしも原発も」に「原発いらない福島の女たち」とともに参加してきました。国会を囲む会鎖として国会正門前での行動に参加してきました。そこで、これからは障害者と女たちが、真剣にタッグを組むことが大切だとうったえてきました。集会で「福島の女たち」のスピーチのあとで、障害者の立場から「女が加害者にならないように」優生思想について、マイクを持って主張してきました。

6月17日 大飯原発のある福井県庁前での抗議行動!

2012-06-17

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6月17日 大飯原発のある福井県庁前での抗議行動に参加し、障害者の立場からのメッセージをビラにして配った。内容は、白石清春さんの書いた「福島県民として物申す」と、わたしの作ったビラを持参した。しかし、ビラだけでは効果が無いと思い、マイクを持ってしゃべって、障害者の立場から問題提起をしてきた。確かに障害者は何人か参加していたが、ビラを配ったり、マイクを持ってしゃべったのは私しかいなかった。

 

障害者を殺す原発はいらない(人命を危険に曝す無謀な大飯原発の再稼動)6/7緊急行動!!

2012-06-03

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政府は何が何でも大飯原発再稼動の方向で強行するつもりです。原発の再稼動なんて、フクシマから何も学ばない無謀な行為です。

小学生でも判る愚考を人々が支持していると、日本の総意だと誤解させてはなりません!!

5月5日のハンストで知り合った「原発いらない福島の女たち」の黒田節子さんから、以下のメッセージが届きました。

私も 福永年久さんも、駆けつけようと思っています。

ひとりでも参加できる方は、一緒に経済産業省テント前に行きましょう !

昨年末のNHKの調べでも東日本大震災での死者は健常者の2倍に上り、ひとたび何かが起これば障害者は真っ先に犠牲になることが明らかになっています。 生まれる前、生まれてからと、これ以上、命を危険にさらすのに反対なら態度で示そう! みんなでNOと言おう!

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昨日今日で決まったことです。7日12時、経済産業省前テント集合、それから国会前に移動します。ダイインと座り込み。

よびかけ:原発いらない福島の女たち。よろしく拡散願います。節子

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大飯原発の再稼働をとめよう!不都合な真実と向き合う勇気を!

2012-05-05

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5月4日5日 経済産業省前テント広場で行われていた脱原発集団ハンストに参加し、24時間のハンストを決行してきました。福島で障害者がどのような状態だったのかを綴ったビラを携えて参加し、多くの参加者と話ししてきました。

  
 

 

 

 

 

いま、大飯原発を再稼働させる動きが出ていますが、福島の教訓に何も学ばない, 世界中から呆れられている、政府に対し国民が暴動を起こさないのが不思議でなりません。今回再稼働させようとする大飯原発から半径50㎞圏が関西のどのような地域を含み、どのようなリスクをはらむのでしょうか、それを糸口にここでよくよく考えてみるべきではないでしょうか。



 

大阪市長や滋賀県知事がきっぱりと反対していたのは、関西の水瓶である琵琶湖が汚染される可能性が高いからに他なりません。そもそも、日本の歴史で原子力発電所の事故が報告されたことのない年はないのは、下図1に示すとおりです。


原子力安全基盤機構の平成18年の報告での上記のグラフが示すように、1基のリアクターにつき平均すると隔年で何らかのトラブルが報告され続けてきたことになります。この対策に、毎年莫大な費用が投じられ続けていながら、それがいざとなったら全く助けにならないことは、福島で証明されているはずです。にもかかわらず、まだまだ不安定な福島第一原発をかかえ東日本全域はいつ高濃度汚染が広がっても不思議でない状態なのに、西日本さえも放射能汚染の危機にさらそうというのは、政府による国家の自殺行為にほかなりません。

4月で「新年度」を迎えたからといって、崩壊へむかう危機的状況が簡単に変わったとは思えません。 現実無視どころか、人々を災禍に巻き込む大飯原発の再開をこの時期に強行する政府を、本気で止める元気がこの国にはないのでしょうか? 福島県に住む人から聞いた話ですが、「福島県産の米は市場に出しても売れないので、ブレンド米に混ぜて市場に出荷している」といいます。さらに、「弁当やおむすびで使われている米にもたくさん混ざっている」ということなのです。この不都合な真実は、震災後の4月5月に国や県が例年通り作付けさせた水田の米の行方について、少し真剣に考えたらわかるはずです。だれもが、うすうす感づいていたはずなのに直視しようとしないことだったのではないでしょうか。いまや、政府が率先して「風評被害」を現実化させ、日本全国津々浦々、食品の安心などないことがわかります。放射線被害の先輩のチェルノブイリの街角では、市場で放射線量をいちいち計測したあと、消費者の判断・自己責任で食品を購入している姿が報道されていました。このようなことは、何年か後に放射線被害で大きな犠牲を出してからでなければ、取り組まないつもりなのではないのでしょうか? 昔から政府というものは報道規制により「井の中の蛙」にした国民を情報操作するのが歴史の常でした。第二次世界大戦の大本営発表でも、「勝利!勝利!」を連発しながら、舌の根が乾かぬうちに「本土決戦」を国民に訴えてはばからなかったではないですか。日本の親達はその口車に乗って、我が子を死に行かせてしまい、大きなこころの重荷を背負ってきたはずではなかったのでしょうか。忘れてはならないことは、それがたとえいくら不都合な事実でも、直視しなければなりません。大日本帝国が世界に誇っていた戦闘機「ゼロ戦」は、「薄い鉄板で軽く作られ機動性が高い代償に、銃弾を浴びると紙飛行機のよう壊れ墜落していったが、分厚い鉄板がパイロットの命を守るグラマンとは対照的であった」と当時開発にあたったエンジニアが戦後になって苦い思いで回想しているではありませんか。国民の命を軽んじる人権感覚の無さは今もそれほど変わらない、いやむしろ、もっと残虐さを増してきているのではないでしょうか。

ここで私たち障害者が福島の原発事故の後に、どのような状態に置かれたのか、もう一度現実を振り返って確認しておく必要があります。 数時間で一斉に退去しなければならないと指示を受けても、自分で動けない人たちは家に残されたまま、餓死し、病院の中でも医師や看護師が先に避難し残された人たちがおりその後自衛隊などが救出にむかったといいますが、その過程で何十人もの人が移動中に命を落としていたのです。一命を取り留め遠隔地の施設に収容された後も、伝達不足や不慣れな環境が原因で命を落としたといいます。これらの事実を政府は黙殺しようとしているとしか思えません。国民の中には「退去命令」ひとつで走って逃げられる者もいればそうでない者もいることは「想定外」で、そういう国民が大量に犠牲になるのは自然の摂理だとでも考えていなければ、このような暴挙は企てられようがありません。人の命の重みや人権に対する日本の国家・社会・人々の態度が今こそ問われ、震災以降、このような視点で日本が世界から注視され続けているのです。 これを、いつまで無視し続けるつもりなのでしょうか。

高度経済成長期の日本で1968年から親による障害児殺しが頻発し、そのたびに親に同情した世間・マスコミが減刑嘆願キャンペーンを唱え、実刑判決を免れて当然という社会概念が形成されてきました。私たち日本の脳性まひ者には、実の親から首に手をかけられ、命からがら生き延びた経験を持つものが多かったのです。そのような立場から「わたしたちは殺されて当たり前の存在なのか?」と、当時の世間の風潮に異論をとなえなければ明日の命が保証されなかったのが、当時の日本の障害者の直面した厳しい現実だったのです。世間の景気が良くなればなるほど経済の論理が支配的になり、生産性のない、足手まといの障害者は、大規模収容施設など社会の見えない場所へと「闇から闇へと」葬られ始めていました。その最たるものが、「優生保護法改正案」のいわゆる胎児条項で、障害を理由に胎児を堕胎することを法的に認め、遺伝疾患への去勢手術とあいまって、障害児者を積極的に「予防」(皆殺し)にし、生存権を否定しようとしていたのです。これは、地方行政レベルでも「経済の論理」を背景に強力に推進されました。たとえば当時の兵庫県知事は「障害児が一人生れると一生で巨額の国家の経済損失で、ゆゆしき問題」という理由で「不幸な子供が生まれない」対策室を発足させるなど、多くの都道府県で類似の障害者撲滅キャンペーンが展開され、私たちも全国各地でこれに異議を唱え非暴力直接行動を組織していった歴史があることをわすれてもらっては困ります。

実際に私自身、1歳半で遠方の大学病院の専門医に診断をうけ「CPです」と宣告され、ショックを受けた母が帰り道の走る列車から私を抱えてと飛び降りようとしたという経験を持ちます。危ういところで祖父が止めていなければ、今ここに生きていなかったでしょう。ところがそれから50年後、この「不幸なこども」とされる私の、障害者として地域社会に根を張って、存在感をアピールしながら制度・人・モノを自由自在に駆使して生き抜いてきた経験が、交通事故による脳挫傷・鬱病・脊髄腫瘍で車椅子生活になった母の第二の人生を、その人生の最後の瞬間までサポートすることになったのです。我が子に障害があると診断されたとき一旦は絶望しきった母でしたが、家にひきこもりがちになった往年には、その「我が子」の私に引っぱられる形で障害者としての人生を一緒に楽しめたと感じています。(2009 APHA 139thAnnual Meeting &Expo: http://apha.confex.com/apha/137am/webprogram/Paper213240.html )

にもかかわらず、産科医療が脳性まひ裁判で危機に瀕しているという一方的な主張で、2009年に産科医療保障制度が開始されのです。その時、私たちの呼びかけに答えた心ある人たちの異議申し立て・抗議も政府は黙殺しました。障害の有無を問わず市民として誇りを持って平等に生活できる社会を国家の責任として実現することを放棄し、巨額の公費を投じ民間保険会社に委託したうえ、支援対象を厳しく限定させました。産科医を通じて全国の妊産婦から一律3万円徴収した掛け金年間300億円から、満期出産、正常分娩、身体障害者手帳1級相当の重度のCP、等と多くの条件を付けたうえで、一人当たり3000万円を上限にした補償を支払うというのです。これは、CPを「3000万円の損失だ」とすべての妊婦に妊娠初期から明示し、「あってはならない存在」だと印象付け、生命選択へ巧妙に誘い込む仕掛けでしかありません。

(25th Pacific Rim International Conference on Disability  p64: http://www.pacrim.hawaii.edu/pacriminfo/pacrim2009/downloads/program/pdf/pacrim2009_program.pdf  )

原発事故と津波以降、だれもがこれから起きる内部被ばくについてますます敏感に反応していくことでしょう。実際、現実に福島の若い女の人たちの中に「結婚できない」と口にする人も少なくないとききます。これらの「本音」の裏には、障害者を生みたくない、育てたくない、という意識が見え隠れしているのです。ここからも障害児の生命の選択が、政府や医療者主導ではなく、優生思想による価値観を持たされてしまうたちの「意志決定」という、巧妙な方法で徹底されていく未来が見てとれます。

歴史上前例のない高齢社会に突入し、誰もが人生の後半で何らかの障害とともに生きなければならない今日の日本では、生まれながらの障害者が生き抜いてきた経験から学ぶべきことは多いはずです。障害者のもつ予想外の可能性が、今や、この国の将来を救える唯一の希望であるかもしれないのです。なのに、そんなことはおかまいなしに、このままとことん突き進むつもりなのですか?いまこそ、すべての人に問いたいとおもいます。私たちの首を絞めれば、あなたたちの未来はないと。

 

 

 

環太平洋国際フォーラム・環太平洋障害と多様性学会2012でしゃべりました!

2012-03-28

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3月24-25日に開催された「障害者の人権に関する環太平洋国際フォーラム」に「環境と障害と人権」分科会座長として招待されました。

同行した白石清春さんも「気象異常・防災・災害復興での人権的アプローチに関するパネルディスカッション」のパネラーとして日本の被災地障害者の人権問題について講演して注目を浴びました。

 

初日の夜のレセプションでは、午前中に「世界的障害者権利運動を地元政策に反映させる」と題したパネラー講演で、自ら脳性まひ者として、黒人としてのプライドをどのように社会に示してきたかを快活に語ったアメリカのキース・ジョーンズ、

地域包括防災対策を障害者地域生活の定着化として実践しているニュージーランドのマルティーナ・アベル、障害者国際クリアリングハウスのスーザン・シーゲル、米国脳性まひ財団(UCP)「車椅子と人権プロジェクト」インドネシア支部長リナワティ・ウタミ、など世界中から集まった障害当事者人権活動家たちと意気投合しました。ほとんどが、わたしたちより一回り以上若い世代で、もはや、国内ではほとんど語られることもなくなった1970年代日本の障害者運動の話をすると、だれもが目を輝かせて、聞き入っていたのが印象的でした。またも、世界に波紋を投げかけたのかもしれません。

 

 

また、私がPittsburgh 在住の頃から関わりのあったADAPT(アメリカを象徴するような障害者権利運動団体)のメンバーで活動の写真を30年以上撮り続けてきた写真家トム・オーリンとADAPTメンバーも私たちに感心旺盛といった感じでした。

翌日のフォーラム2日目で同席していたUCPの国際部門の会長から聞いた驚くべき実話です。東日本震災直後にUCPが「一人でもたくさんの人に役立ててもらいたい」と電動車椅子50台を送りたいと、いち早く申し出たそうです。でも政府関係者がその意向を断ったという話を教えてくれました。どうしてそうなったのか理由を訊くと、その電動車椅子が米国製の中古だったので、「その後のメンテナンスが困る」「輸入代理店の独占契約に抵触する」ということが辞退の理由だったといいます。にもかかわらず「新車ならいただきたい」という日本のNPOを紹介してきたので、そこに台数は数台だが新車の電動車椅子を送ったそうです。「しかし後で調べてみたら、送った電動車椅子はその団体がすべて売却し換金し、実際には意図していた被災地には届いていないことがわかって、呆れはててしまった。日本という国では、一体どのようにしたら、支援物資が本当にそれを必要とする人に届くのか?」と逆に質問されてしまいました。 「障害者の事は障害者自身で決める」”Nothing about us without us.”という大原則が、今の日本でいかにないがしろにされているか思い知らされました。そのような当事者ぬきの結果として、「同情するなら金よこせ」と言わんがばかりに障害者を食い物にする日本人がいかに多いことか、海外から奇異の眼で視られるのも無理もないことなのだとつくづく実感しました。(http://www.pacrim.hawaii.edu/internationalforum/2012/)

 

 

3月26-28日に開催された「障害と多様性に関する環太平洋学会」PacificrimConference 2012では、2時間人権ワークショップ「東日本大震災、津波、原子力発電所事故と福島における障害者に対する人権侵害」を企画し講演してきました。(http://www.pacrim.hawaii.edu/pacriminfo/pacrim2012/events/workshops/workshop11.php)



ねらい:このワークショップは東日本大震災、津波、原子力事故後の福島での障害者の人権侵害と国連障害者の権利条約(Convention for the Rights of Persons with Disabilities: CRPDと略す)違反を概観しました。日本のマスメディアは震災後のCRPD違反にはほとんど言及していませんし、「不都合な真実」は無視されてきて、障害者の権利は黙殺され続けています。だから、国際社会にこの事実を知らせることで、震災後における障害者差別と人権の立場からの議論を喚起したいと、企画しました。

概要: 東日本大震災、津波と原子力発電所事故後の福島では、日本の障害者の人権はひどく侵害されています。災害の後何ヶ月たっても、障害者はますま苦しい権利侵害を余儀なくされています。講演者の白石清春氏は震災直後に、広く福島県下の障害者団体に大同団結を呼びかけ「JDF 被災地障害者支援センター福島」を設立し、代表としてセンターを運営してきました。センターの活動を通じ、障害当事者自身が困難の現場に出向き、事実の証人に直接会いに行くことで、それに呼応した多くの人々が心を開いたのです。現場で何が起きたのか災禍の目撃証言をはじめ、実際に混乱の中での方針決定や実施に関与させられることになった人たちや強制非難地区に指定された当初にそこに住む障害者の身に起こった、語られることのなかった真実などを含む非常に貴重な情報を集めることができました。これまで報道されなかった、被災障害者の身に起こった差別と人権侵害を目の当たりにして、地域社会で障害をもった人々 が平等に生きることを困難にしている障壁の厳しい現実について、深く考え直すことができました。これらのセンターの支援活動の過程における考察も含めて、これまで決して語られることのなかった障害者ならではの視点から見た情報を提供し、「不都合な真実」を直視する勇気を持とう!という議論を提起してきました。

 

 

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